読書生活 

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書評を上手に書く方法 『未来形の読書術』石原千秋

 「読書生活」などというブログを書いているくせに、書評が上手に書けません。「書いてあることを自分のフィルターを通して語る」これがよい書評だと思って書いていました。この「自分のフィルター」が書評の出来を左右する、と思って書いているのですが、わたしが書くと上から目線のシニカルな悪口になってしまいます。そんな書評下手なわたしのような人間の役に立つ本がありました。以前紹介した石原千秋さんの「未来形の読書術」です。

 石原さんは評論の書き方をこう説明しています。

ごく簡単に身も蓋もない言い方をすれば、「ふつうはこう思っているだろうが、僕はこう思う」と書くのが評論である。

そして、

常識と、批判的検討(批評)、評論はこの二つの要素がうまく組み合わさってはじめて成功するのである。

なるほど、できそうです。書いてみましょう。「永遠の0」百田尚樹です。

「特攻隊で散っていった若者たちの多くは、当時の世論やマスコミに洗脳され喜んで死地に向かったと思われているが、それはあまりに短絡的な考え方だ。特攻隊員一人一人が目の前の現実を直視し、筆舌に尽くしがたい葛藤を抱えながらゼロ戦を操り敵機に向かっていった。百田氏は膨大な資料を元に様々な角度から特攻を捉え、精緻な描写でその葛藤を描くことに成功した」

 石原さんは、先の「未来形の読書術」でこうも言っています。

一番惨めなのは、常識の把握が間違っている場合で、これがずれていると何に対して異議申し立て(批評)を行っているのかさっぱりわからないピンぼけの文章になってしまう。

 なるほど、さっきの「永遠の0」書評を読み返してみましょう。特攻隊員に対する常識を「洗脳され喜んで死地に向かった」としました。「洗脳」という部分に百田氏が強い否定的態度を取っていることは、本作を読まれた方には納得していただけると思います。作品中の、朝日新聞記者と元特攻隊員の激論は、本作の核の一つとなっています。     

 石原さんは、さらにこう付け加えています。

次に惨めなのは常識の批判的検討(批評)が実は常識そのものでしかなかった場合で、実に凡庸な評論になってしまう。

 何なに?批判的検討が常識になっていないか?批判的検討を「様々な葛藤を抱えながらゼロ戦に乗りこみ~」としましたが、これは常識ってやつですね。なるほど、何か物足りないと思ったのは、ここですね。ここを、もっと違った言葉で書けるといい書評になると思うのですが。「死んでいった仲間に申し訳ない」とか「今さら自分だけ生きて帰ることなどできない」などといった陳腐な言葉ではなく、私自身の独創的な言葉が。やっぱり私には言葉が足りません。

 ここまで書いて、ふと思ったのですが、常識と批判的検討、これを「永遠の0を普通の人はこう読んでいるだろうが、私の読みは~だ」的な書き方でもいいのではないか、逆にこれが本線なのではないか、とも思ってきました。前者の書き方が「寄り」の視点、後者の書き方が「引き」の視点と言えそうです。常識と批判的検討の二項対立、寄りと引きの視点、これらを意識して今後書いてみたいと思います。どちらにしても語彙が必要です。本でも読みますか。 

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