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司馬遼太郎作品に見る戦国三傑「信長・秀吉・家康」

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織田信長

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いい男

「水もしたたるような美しい若殿でございます」よくよく信長の顔を見ると、この十五歳の若者は彼女がかつて見たことがないほどに高貴な目鼻だちを持っている。『国盗り物語 3』

水泳が得意

もともと体を動かして飛び回ることは大好きで、弓術、水練にはとくに精を出してきた。水練は格別に好きで、まだ水に入るには寒い三月にはもう信長は連日水中にいたし、毎年九月までは泳ぎ回って暮らしていた。『国盗り物語 3』 

乗馬好き

山には道がない。木の枝、草の根をつかんで全軍が上り下りした。が、信長は馬から降りない。子どもの頃から異常なほどの乗馬好きだったこの男は、蹄の置ける場所さえあれば楽々と馬を御することができた。『国盗り物語 3』

片えくぼ

義昭は信長に常駐してくれるように頼んだが、信長はその特徴のある片えくぼをくぼませたのみで、返事さえしなかった。『新史 太閤記 上』

黒人の部下がいた

南蛮僧が献上した黒人を珍重がり、-まさか墨を塗っておりはせぬな。とわざわざ湯に入れて試し、まぎれもなく天然の皮膚だと知るといよいよ可愛がり、ついには弥助と名付けて太刀持ちにしたほど、この種の癖のある男である。『新史 太閤記 上』 

妹のお市は超美人

この近江の国を、この時期の信長は死に焦がれるほどに欲した。だからこそ、黒色無双と言われた妹のお市を、近江北部の大名浅井長政に嫁せしめ、姻戚の縁を結んだ。『新史 太閤記 上』 

お市は齢はすでに三十六ながら日本第一の美人と言われていたほどの婦人であり、信長が残した遺産の中で最も華麗なものであるだろう。(柴田勝家と再婚する時の描写です)『新史 太閤記 下』

豊臣秀吉 

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瓢箪が家紋なのは、秀吉が信長の後を瓢箪を持って追いかけていたから

紋も考えねばならない。猿は一も二もなく瓢箪にした。実際、大瓢箪を抱いて信長の後を追っかけていた姿を家中の者も城下の者も知っているから、それを紋にすれば誰も憎まず、愛嬌を感じてくれるだろう。『新史 太閤記 上』 

下戸

猿はさらに手足を舞わしてふざけた。そのくせ下戸の男は酔ってもいないのである。『新史 太閤記 上』

身長145cm

「五尺そこそこ」と、猿は平素身の丈のことを自称していたが、どうやら水増しがあるようである。又右衛門の息子の弥兵衛が満十四歳で四尺八寸である。その少年と並ぶと、猿はほどほどあった。となればこの男は一四五センチほどしかないのではないか。『新史 太閤記 上』

「大坂」の名付け親

後年、大坂に本拠を移したときもそうであった。大坂はそれまで「をさか」とよばれ、文字は決まっていなかった。それをこの男は「おほさか」とし、「大坂」と書くことを公にした。『新史 太閤記 上』

女好きなのでキリスト教徒にならなかった

「好意はもっている。しかしだめだ」

藤吉郎はなによりも女を好み、度を越えている。キリシタンでは一夫一婦を強制するという。十戒の第七条に「汝、姦淫するなかれ」という箇条があり、性欲の統御についてやかましい。藤吉郎がもし今入信するとすれば、姫路城や長浜城や安土屋敷などにかこっている想い者たちを召し放たねばならず、それをするくらいなら死んだ方がましだと思っている。『新史 太閤記 下』

風呂好き

入浴が別して好きな男であり、この改築した姫路城でも湯殿だけはとくに入念につくっておいた。『新史 太閤記 下』

日本史上、人肉を食べるほどの籠城戦は、秀吉が行った鳥取城戦だけ

四月目には、一部の間で餓死者の肉を食う者が出てきた。古来、人肉を食った例は、残されている資料ではこの鳥取城内の場合しかない。さすがに士分の間ではそれほどの事象は見られなかったが、足軽以下には名誉心がとぼしく、容赦なく屍肉を食い、死体をあさるために、夜間、柵のそばまで忍び寄って味方の戦死者の足をひきずろうとする者も出、それが羽柴方の哨兵に撃ち殺されるや、その男をほかの味方が食ってしまうというありさまになった。さらには生きている者さえ殺され、仲間に食われた。『新史 太閤記 下』

寧々は毛なし

御器とは椀のことである。寧々のそれはつるりとして御器のようであり、身に覚えのあることだけに驚いた。『新史 太閤記 上』

徳川家康

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爪を噛む

家康は、例の癖で爪を噛み始めた。頬のとびでた泣きっ面で爪を噛む様は、どう見ても英雄とか豪傑とかいった種類の概念からほど遠かった。『覇王の家 上巻』

位の高い女性に興味なし

この正室についてのきわめて異常なかたちの死別を遂げてのちは、女といえば妾に限った。それも上位の家の娘に少しも関心を示さず、家来や領民のむすめを上げて妾にした。『覇王の家 上巻』

女好きで、毎日寝た

家康は閨のことを好み、かれの閨にはつねに婦人がいた。驚嘆すべきことであったが、かれは死ぬまで婦人を閨にはべらさずに寝ることはまずなかった。『覇王の家 上巻』

スポーツは健康にいいことを日本史上最初に知ったかもしれない人物

かれは遊女が梅毒をもっているということで生涯接しなかったし、なま水は飲まず、驚くべきことにスポーツは健康にいいということをおそらく日本史上で最初に知ったかもしれない人物で、彼の鷹狩りなどもその必要からのものであり、そのことは諸記録にも出ている。『覇王の家 上巻』

「浜松」の名付け親

浜松は家康がつけた地名で、それまでは引間と言い、引間城という小さな古城があった。『覇王の家 上巻』

大便をもらしたことがある

家康は一息入れたときだけに恐怖は以前にもまして大きく、夢中で駆けだした。おもわず、馬の首に顔を伏せながら鞍壺で糞を洩らしたというのは、このときであった。『覇王の家 上巻』

便秘

家康の腹の上にお勝の掌(て)がある。お勝の掌は、ゆっくりと家康の腸の方向にむかって腹をなでさすっている。便秘をふせぐための按腹(あんぷく)である。『関ケ原 上』

太りすぎて自分でふんどしを締められず、自分の性器に手が届かない

家康はちかごろいよいよ肥満しはじめて、自分でふんどしを締めることができない。自分の手で自分の前にふれることもできないのである。『関ケ原 上』 

若い頃は痩せていた 

家康はこの期間(三方原の戦いの頃です)、少年のころや晩年とは別人のように痩せており、目ばかりが大きく、頬骨が大きく出て、あごが長くとがっていた。『覇王の家 上巻』

城攻めは苦手

この物事に慎重すぎるほどの人物は、その性格とは反対に、生涯、野外決戦を得意とし、気長を要する城攻めを最大の苦手とした。『国盗り物語 3』

ぜいたくは嫌い

家康は秀吉に仕えている時は、自分の毒気をいささかも見せず、つねに慇懃であった。しかし、その時期、内々の場で家来たちにひそかに洩らす言葉は、秀吉のあの派手なやりかたに染まるな、ということであった。『覇王の家 上巻』 

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