『論語』とは
「四十にして惑わず」。論語の有名な一節です。孔子の弟子たちが、孔子の死後、孔子の言動を弟子たちが思い出して書いたものが『論語』となりました。『論語』は古典の中の古典で『大学』『中庸』『孟子』と並ぶ「四書」の筆頭です。
論語…難しそうだし、少し偉そうだし、で読まず嫌いでした。しかし、金谷治さんの訳がとても分かりやすいと評判だったので、読んでみました。
それほど難しくありません。偉そうでもない。金谷さんの論語を読む前に、渋沢栄一の『論語と算盤』を読みましたが、そちらよりおすすめです。
論語は20扁に分けられています。その内容は、ほとんど断片的といってもいいような短いことばの集まりです。意味がわからないというようなことはまずありません。人によって響くことばやその数は変わってくると思いますが、この論語の中の言葉に目を通して、刺さる言葉が一つもないということもないでしょう。
『論語』8の名言
曾子曰。吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。
曾子曰わく、吾日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交りて信ならざるか。習わざるを伝うるか。
わたしは毎日何度もわが身について反省する。人のために考えてあげてまごころからできなかったのではないか。友達と交際して誠実でなかったのではないか。よくおさらいもしないことを(受け売りで)人に教えたのではないか。~『論語』学而第一より~
子曰。學而不思則罔。思而不學則殆。
子曰わく、学びで思わざれば則ち罔し。思いて学ばざれば則ち殆うし。学んでも考えなければ、(ものごとは)はっきりしない。考えても学ばなければ、(独断におちいって)危険である。~『論語』為政第二より~
子曰。由。誨女知之乎。知之爲知之。不知爲不知。是知也。
子曰わく、由、女に之を知ることを誨えんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す。是れ知るなり。お前に知るということを教えようか。知ったことは知ったこととし、知らないことは知らないこととする、それが知るということだ。~『論語』為政第二より~
子曰。不患無位。患所以立。不患莫己知。求爲可知也。
子曰わく、位無きを患えず、立つ所以を患う。己を知ること莫きを患えず、知らる可きを為すを求むるなり。地位のないことを気にかけないで、地位を得るための(正しい)方法を気にかけることだ。自分を認めてくれる人がいないことを気にかけないで、認められるだけのことをしようとつとめることだ。~『論語』里仁第四より
子曰。不憤不啓。不悱不發。擧一隅。不以三隅反。則不復也。
子曰わく、憤せざれば啓せず。悱せざれば発せず。一隅を挙げて、三隅を以て反さざれば、則ち復せざるなり。(わかりそうでわからず)わくわくしているのでなければ、指導しない。(言えそうで言えず)口をもぐもぐさせているのでなければ、はっきり教えない。一つの隅をとりあげて示すあとの三つの隅で答えるというほどでないと、くりかえすことをしない。~『論語』述而第七より~
子曰。貧而無怨難。富而無驕易。
子曰わく、貧にして怨むこと無きは難く、富みて驕ること無きは易し。貧乏でいて怨むことのないのはむつかしいが、金持ちでいていばらないのはやさしい。~『論語』憲問第十四より~
子曰。不患人之不己知。患其不能也。
子曰わく、人の己を知らざるを患えず。其の不能を患うるなり。人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、自分に才能のないことを気にかけることだ。~『論語』憲問第十四より~
孔子曰。生而知之者上也。學而知之者次也。困而學之又其次也。困而不學。民斯爲下矣。
孔子曰わく、生まれながらにして之を知る者は上なり。学びて之を知る者は次なり。困みて之を学ぶは又其の次なり。困みて学ばざるは、民にして斯を下と為す。生まれついてのもの知りは一番上だ。学んで知るのはその次だ。ゆきづまって学ぶ人はまたその次だ。ゆきづまっても学ぼうとしないのは、人民で最も下等だ。~『論語』季氏第十六より~
孔子とは
孔子とは古代中国の偉人です。今から2500年前の人です。紀元前552年9月28日生まれ、紀元前479年3月9日没です。
ブッダと同時期の人
この頃日本は縄文時代の終わりといったところです(諸説あり)。この後しばらくして、中国では万里の長城が作られ始めます。また、ほぼ同時期にブッダが生まれています。
大きくて強い
あたまでっかちのひ弱なエリートという印象がありませんか?違います。身長216cmの規格外の長身と言われています。216㎝って!。白鵬(192㎝)よりも、ジャイアント馬場(208㎝)よりも、セームシュルト(212㎝)よりもでかいんですよ。孔子より背の高い有名人は「怪物くん」のフランケンでおなじみ?チェホンマン(220㎝)くらいです(チェホンマンってどんだけでかいんだって感じですが)。しかもでかいだけじゃなく、強かった。ただ、戦わなかっただけなんだって。このあたりは中島敦の『弟子』にあります。