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司馬遼太郎が語る豊臣秀吉

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選挙の神様 豊臣秀吉 

秀吉がこんにちの人なら、かれは商売で貯財して代議士に打って出たであろう。代議士としては票集めがうまく、選挙の神様などといわれたに相違いない。『司馬遼太郎が考えたこと 1』

 司馬遼太郎は、三英傑の中でも秀吉が好きだったようです。こんな文章を見つけました。

秀吉は好きです。とくに天下をとるまでの秀吉が大好きです。歴史上の人物で、私が主人として仕えていいと思うのは、この時期の秀吉です。『司馬遼太郎が考えたこと 2』

 司馬遼太郎は秀吉になら「仕えていい」とまで言っています。秀吉のよさをどこに見出しているのでしょう。続けます。

 他人の功利性をもっとも温かい眼でみることができたのは諸英雄のなかでは、秀吉のみでしょう。ある種の宗教的雰囲気をもった英雄がいます。たとえば、関羽、八幡太郎義家、楠木正成、上杉謙信、西郷隆盛などで、もしこういう人達を主人として選んで、しかもその人物に魅力を感じてしまった場合、人は多く命を捨ててしまいます。

 秀吉には、そういう、傾斜のするどい宗教的魅力はなかった。なかったことは同時に、偉大さをもあらわすものでしょう。『司馬遼太郎が伝えたかったこと 2』

 秀吉は、人の死を悲しみます。味方はもちろん、敵もなるべく殺さないようにする。太平洋戦争の経験者として、司馬遼太郎も強くそう思っていたようです。

 信長は火攻めを好みましたが、秀吉は、敵の人命をあまりそこなわない水攻めをもっぱらにしました。殺戮せず、できるだけ外交によって敵を倒そうとしたことも、英雄としては異例です。『司馬遼太郎がつたえたかったこと 2』

応仁の乱がなければ秀吉の奇跡はなかった

 最近話題の応仁の乱と秀吉との関係に触れているのがこちら。 

 応仁の乱(1467~1477)は、多分に生物学的現象に似た革命だった。社会の上下がくずれ、やがて下が上にあがり百十数年の戦乱のあげく、ついには浮浪児のような境遇から身をおこした人物が、関白になり、天下を掌中におさめた。秀吉のことである。応仁の乱がなければ秀吉の奇跡はありえなかった。

 この乱の真の原因は、室町初期以来、日本の農業生産があがったことにあるということも、すでにのべた。これに伴い、商品経済や流通が活発になった。この現実を信長が追認し、楽市楽座の制を始めた。

 秀吉はそれをさらに前進させて、市場経済をかれの天下統一の基礎構想の一つとした。自分の城下の大坂に全国的な市(米や材木など)を設け、天下をひとつの市にし、成功させたのはみごとといっていい。『この国のかたち 3』

大坂城は大きすぎた

 大阪城公園駅には司馬遼太郎の文章がありますね。大坂城についてこんな文章を見つけました。

 いまの大坂城は徳川初期に建て直したもので規模が小さくなっていますが、秀吉が完成させた大坂城は、当時アジア最大の城塞だったと思います。

 南蛮人がひどく驚いたという記録が残っています。たとえば南蛮船が貿易のために大坂湾に入ってきて、まず目に入るのは大坂城です。これを見て日本の国力の大きさ、秀吉の権威の大きさに、外国商人たちは驚いたでしょうし、おそらく驚かしてから商売しようという商業政策上の理由もあったでしょう。

 国内統一と海外貿易に目標をおいた秀吉としては、権力者としての商売になるわけで、この城は軍事目的は、より少なくて、秀吉権力の魔術の大道具だったのでしょう。秀吉は、世界における自分の位置とか、日本の位置とかいうものを考えて、つまり世界的意識を具象化したのがかれの大坂城だったと思います。『司馬遼太郎が考えたこと 5』

秀頼は秀吉の子どもではなかった?

 梅毒にやられていた可能性があるとのことです。真相はわかりませんが。長年連れ添った北政所は気付いていたのでは?というところがおもしろいです。

 秀吉という人はずいぶん女好きであったようですけれども、子供にはめぐまれていません。一応、公式には淀君との間に、2歳で死んでしまった鶴丸という子と豊臣秀頼の2人の子供が生まれたということになっていますが、これはどうも秀吉の子ではないかという噂が、当時からあったのです。まあ、秀吉自身が自分の子供だと信じて公的にもそう承認していたのですから、私も秀頼は秀吉の子であるという態度をとっているわけで、生物学的に誰の子であるのかをあれこれ詮索するのは無意味ですからね。ところがどうやら寧々さん(北政所)などはそうは思っていなかったようです。なんといっても何十年も連れ添った秀吉の女房ですし、あるいは秀吉には子種がないのではないか、というようなその辺の機微は一番よく知っていたはずでしょう。だいたいにおいて、このころの武将には子種のない人が非常に多かったようですしね。

 何故かといえば、これは余談になりますが、当時はちょうど唐瘡(梅毒)が入ってきた時期で、日本はこの病気にとって処女地ですから、非常な勢いで広まってしまったのです。

 秀吉にしても、織田家の将であったころは岐阜に屋敷がありながらもおちつくひまもなく信長にこきつかわれて、東奔西走だったわけですね。しかも万事派手すきな人間ですから、軍旅に遊女をつれていったりもしています。お得意の攻城戦の時など、陣が長引いて士気が阻喪(そそう)するのをふせぐために、遊女町を陣の中に設けたりもしたくらいです。その点からみても、秀吉の場合、どうも状況としての感染率が高かったのではないかと思えるのです。『司馬遼太郎が考えたこと 6』

どうして秀吉は明征伐を行ったのか? 

 天下統一を果たした後の秀吉の行動には、多くの方が疑問符をつけています。司馬遼太郎もそう思っていたようです。

軽度のパラノイア

 性格があかるかったのも、かれの美質だった。あかるさが、かれの七難をかくしたから、もし当時選挙制があっても、ひとびとはかれに投票したに違いない。

 そういう秀吉が、なぜ大明征伐を呼号し、朝鮮国に案内を強要し、したがわぬとあって、ただちに出兵するような無謀なことをしたかとなると、まったくわからない。 理由を経済にもとめても、雲をつかむようである。対明貿易をしたかったのだという解釈がある。それならそれにふさわしい手続きをとるべきだが、とったとはいえない。 政治学的にも、不可解である。国内統一を鞏固(きょうこ)にしたかった、という解釈もあるが、それほどの矛盾をかれはかかえていなかったし、統一への自信は過剰すぎるほどにもっていた。

 若いころのかれは得手勝手者ではなかった。むしろ他者に対して気がねをし、相手の感情や利害を見る上では気の毒なほどに過敏なたちだった。が、政権をえて、独裁者になった。

 その政権はわずが十年余だったが、その間、かれは自分の補佐機関を整備したとはいえ、日本史上、類なき独裁者になった。

 ほとんど、超越者にちかい権力だった。それでも、東海の徳川氏や九州の島津氏、また関東の北条氏が存在しているうちは、まだ十分以上に自己抑制のきいた政治感覚をもっていた。それらが消滅し、その権力がいわば無制限の宙空にうかんだときから、変になった。 関東小田原の北条氏を征伐して国内に敵らしい敵がなくなったとき、鎌倉で頼朝の像を見、「それでも君は名門にうまれたじゃないか」という意味のことをいったといわれる(『常山乗談』『関八州古戦録など』)。頼朝とはちがい、自分は赤裸から身をおこして天下をえたのだという自負であった。これを、かれの一場の機智としてみるよりも、軽い病気の症候としてみるほうがいいのではないか。『この国のかたち 3』

 病気!続けます。

 かりに軽度のパラノイアと考えることにする。秀吉の性格や履歴、それに、敵をうしなってにわかに無重力的気分になったであろうことなどを考えあわせてのことである。

 パラノイアは、40歳以後の、とくに男性にあらわれるらしい。病者がもつ妄想世界にかぎっていえば、その内部では明晰で、体系的でもあり、思考、意志、行動に完全な秩序があるようであるが、軽度な場合、決してまわりは変だとはおもわず、むしろユーモラスに感ずるくらいである。 『この国のかたち 3』

秀吉が朝鮮国王に送った国書

 天正18年仲冬(ちゅうとう)の日付のある秀吉の朝鮮国王への国書も、これをどのように読んでも、まともな神経の文章ではない。『この国のかたち 3』

 まともな文章ではないって…。 

「わが慈母が自分を懐胎したとき、日輪が懐に入る夢をみた」というようなことを、国書のなかでのべているのである。こういう奇跡のおかげで六十余州を討ち平らげたのだ、という。だからおれには恐れ入らねばならない、といわんばかりの調子だった。『この国のかたち 3』

秀吉の明征伐を無視し続けた徳川家康

 秀吉の傘下に入って、秀吉からつねに一目置かれていた徳川家康は、いっさいこのことについて論評した気配がない。かれは、秀吉から朝鮮入りについての報を江戸でうけとったとき、独り書院にすわって沈思黙考していた。

 そこへ謀臣の本多正信が入ってきて、「殿は朝鮮に渡海召さるるや」ときいた。以下のことは、『備前老人物語』にある。

 家康は考え事をして答えず、正信がなおも問うと、三度目に、なにをさわがしい、と叱り、やがて、「箱根をば誰が守るべき」といったという。自分は外征に加わらない、ということである。べつに家康がえらかったのではなく、当時の度外れた秀吉に対し、かれは常人であったにすぎない。

『この国のかたち 3』

 この明征伐がなければ、秀吉の子飼いの武将たちが仲間割れすることもなく、関ケ原の戦いも実際とは違うかたちになったと思うのですが。

 また、この秀吉の病気とも思える行為により、当時だけでなく現在に至るまで朝鮮や中国のうらみとして続いているのは悲しいことです。

 

 ここからは、秀吉のネタです。司馬遼太郎作品の中から、あまり知られていない豊臣秀吉ネタを拾ってみました。随時更新していきます。

司馬遼太郎作品の中の豊臣秀吉  

信長の草履取りになるまで、39回職業を変えた

幼いころから浮世を素足で歩き、このとしになるまで39回職業をかえたこの若者は、人の心というものがふしぎなほど読み取れた。『国盗り物語 第三巻』 

瓢箪が家紋なのは、秀吉が信長の後を瓢箪を持って追いかけていたから

紋も考えねばならない。猿は一も二もなく瓢箪にした。実際、大瓢箪を抱いて信長の後を追っかけていた姿を家中の者も城下の者も知っているから、それを紋にすれば誰も憎まず、愛嬌を感じてくれるだろう。『新史 太閤記 上』 

下戸

猿はさらに手足を舞わしてふざけた。そのくせ下戸の男は酔ってもいないのである。『新史 太閤記 上』

身長145cm

「五尺そこそこ」と、猿は平素身の丈のことを自称していたが、どうやら水増しがあるようである。又右衛門の息子の弥兵衛が満十四歳で四尺八寸である。その少年と並ぶと、猿はほどほどあった。となればこの男は一四五センチほどしかないのではないか。『新史 太閤記 上』

「大坂」の名付け親

後年、大坂に本拠を移したときもそうであった。大坂はそれまで「をさか」とよばれ、文字は決まっていなかった。それをこの男は「おほさか」とし、「大坂」と書くことを公にした。『新史 太閤記 上』

女好きなのでキリスト教徒にならなかった

「好意はもっている。しかしだめだ」

藤吉郎はなによりも女を好み、度を越えている。キリシタンでは一夫一婦を強制するという。十戒の第七条に「汝、姦淫するなかれ」という箇条があり、性欲の統御についてやかましい。藤吉郎がもし今入信するとすれば、姫路城や長浜城や安土屋敷などにかこっている想い者たちを召し放たねばならず、それをするくらいなら死んだ方がましだと思っている。『新史 太閤記 下』

風呂好き

入浴が別して好きな男であり、この改築した姫路城でも湯殿だけはとくに入念につくっておいた。『新史 太閤記 下』

日本史上、人肉を食べるほどの籠城戦は、秀吉が行った鳥取城戦だけ

四月目には、一部の間で餓死者の肉を食う者が出てきた。古来、人肉を食った例は、残されている資料ではこの鳥取城内の場合しかない。さすがに士分の間ではそれほどの事象は見られなかったが、足軽以下には名誉心がとぼしく、容赦なく屍肉を食い、死体をあさるために、夜間、柵のそばまで忍び寄って味方の戦死者の足をひきずろうとする者も出、それが羽柴方の哨兵に撃ち殺されるや、その男をほかの味方が食ってしまうというありさまになった。さらには生きている者さえ殺され、仲間に食われた。『新史 太閤記 下』

寧々は毛なし

御器とは椀のことである。寧々のそれはつるりとして御器のようであり、身に覚えのあることだけに驚いた。『新史 太閤記 上』

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