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司馬遼太郎は徳川家康をどう評価していたのか。

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司馬遼太郎の小説には、徳川家康がよく登場します。家康を主役として扱った「覇王の家」、ほぼ主役の「関ヶ原」、秀吉を語るに欠かせないので「新史太閤記」…。複数読めば、家康を通して司馬史観が透けて見えます。

高級官僚 徳川家康 

もともとこの人は、信玄や謙信のような戦術的天才もなく、信長のような俊敏な外交感覚もなかった。かれに右の3人より長じた才があるとすれば、部下の官僚(家康の部下だけが近代的官僚のにおいがする)に卓越した統制力ぐらいのものであろう。かれがもし今日にあれば、律儀に受験勉強をし、律儀に東大に入り、律儀に公務員試験をうけてまずは有能な局長クラスにゆくに違いない。『司馬遼太郎の考えたこと 1』

家康の好み。家来の娘や未亡人が好き。

家康というのは彼(秀吉)とは正反対に、子供がたくさんできる人間でもあったのですけれども、どうやら遊女に接したことは、あったにしてもごく稀だったようなんですね。というのは、家康という人は常に手持ちだったのです。彼の好みは自分の家来の娘であるとか、家中の未亡人、あるいは陣内の娘であるとかいうような具合で、要するに遊女ではなかったわけで、そういうものを戦陣にまで連れていっているんです。ですから、彼の場合は性病にかかる可能性は非常に少なかったようです。『司馬遼太郎の考えたこと 6』

家康の演技力。

 家康という人は、もともと演技が上手な人ですよ。若い頃から秀吉が息を引き取る瞬間まで律儀者で売った人でしょう。約束は必ず守ったし、信長に対する二十年同盟でもわかるように、自分がこれと思った人に対しては対しては非常によく尽くすという、およそ後の家康とはまったく違った自分を打ち出して、世間に対し十分に演技しきった人です。それが秀吉が死ぬと同時に、別人になった。

 食わせ者ということになれば、家康ほどの食わせ者はちょっと世界史にないのじゃないですか。西洋にも大体食わせ者は出てきますけれども、そういう人物でも、大体ひと色の芝居しかできませんよ。家康は二色の芝居を楽しんだ人で、しかも役どころを変え、性格を変えて、二狂言やっている。ほんとうの食わせ者でしょう。大坂の陣では、まったくひどいもので、奸智の人として類がないように思えます。『司馬遼太郎の考えたこと 5』

どうして家康は、多くの豊臣大名の上にたてたのか?

 朝鮮出兵の従軍派が頼ったのは、徳川家康だった。家康は形式上は豊臣家の大老のひとりとして秀吉から重んぜられてきたが、天下政治には嘴(くちばし)を入れず、実質は客分だった。

 従軍派がなぜ家康に心をよせ、かつ家康が巧まずして従軍派の上に載ったか。またなぜ家康が一見無策でいるかのようにみえて隈なくかれらの心をとったか、という動機については、数行では書き表せない。

 ひとことでいえば、時の流れというほかない。すくなくとも豊臣家の有力大名(多くは従軍派)は、自分たちの保全、ひいては世の安寧をのぞんでいたのである。

 この時期、家康は関東八か国という豊臣家大名最大の封土を持っていた。前歴も重かった。かれは前政権である信長の弟分というべき同盟者だったのである。

 その上、秀吉とも戦ったことがあり、しかも判定勝ちだった。しかし天下の大勢をみて秀吉との和に応じた。

 そういう前歴と、大領主のぬしであることが家康を利し、秀吉死後の政局下で、ただ黙っていればよかった。

 その上、かれは感情家ではなく、驕慢でもなかった。このことがひとびとに安堵感をあたえた。当時、このような人を器量人とよんで、珍重する風があった。

 多くの器量人がそうであるように、家康は物の上手ではあっても、独創家ではなかった。そのことも、ひとびとの好みに投じたろう。もはや世間は改革や奇想にあきあきしていた。家康は世間のそういう気分に乗り、関ヶ原合戦を経て天下を継承した。かれは秀吉政権のとくに経済体制をよく継ぎ、それを精密にした。鎖国は家康の死後のことで、かれの知るところではない。

 日本の近世は、三人の異なる個性によって完成した。『この国のかたち 三』

功罪が大きい。

 司馬遼太郎は家康の能力を高く買っていますが、このようにも述べています。

 しかし、家康は功罪が大きいな。なにしろ、かれの家系を維持するためにわれわれ日本人は、300年、たった一つの目的のために侏儒(しゅじゅ)にされましたからね。『司馬遼太郎の考えたこと 2』

 「侏儒」とは、「1:背丈が並外れて低い人。こびと。2:見識のない人をあざけっていう語」です。

爪を噛む。

家康は、例の癖で爪を噛み始めた。頬のとびでた泣きっ面で爪を噛む様は、どう見ても英雄とか豪傑とかいった種類の概念からほど遠かった。『覇王の家 上巻』

位の高い女性に興味なし

この正室についてのきわめて異常なかたちの死別を遂げてのちは、女といえば妾に限った。それも上位の家の娘に少しも関心を示さず、家来や領民のむすめを上げて妾にした。『覇王の家 上巻』

女好き

家康は閨のことを好み、かれの閨にはつねに婦人がいた。驚嘆すべきことであったが、かれは死ぬまで婦人を閨にはべらさずに寝ることはまずなかった。『覇王の家 上巻』

健康のために運動をした最初の人物

かれは遊女が梅毒をもっているということで生涯接しなかったし、なま水は飲まず、驚くべきことにスポーツは健康にいいということをおそらく日本史上で最初に知ったかもしれない人物で、彼の鷹狩りなどもその必要からのものであり、そのことは諸記録にも出ている。『覇王の家 上巻』

「浜松」の名付け親

浜松は家康がつけた地名で、それまでは引間と言い、引間城という小さな古城があった。『覇王の家 上巻』

大便をもらしたことがある

家康は一息入れたときだけに恐怖は以前にもまして大きく、夢中で駆けだした。おもわず、馬の首に顔を伏せながら鞍壺で糞を洩らしたというのは、このときであった。『覇王の家 上巻』

便秘

家康の腹の上にお勝の掌(て)がある。お勝の掌は、ゆっくりと家康の腸の方向にむかって腹をなでさすっている。便秘をふせぐための按腹(あんぷく)である。『関ケ原 上』

太りすぎて自分でふんどしを締められず、自分の性器に手が届かない

家康はちかごろいよいよ肥満しはじめて、自分でふんどしを締めることができない。自分の手で自分の前にふれることもできないのである。『関ケ原 上』 

若い頃は痩せていた 

家康はこの期間(三方原の戦いの頃です)、少年のころや晩年とは別人のように痩せて_おり、目ばかりが大きく、頬骨が大きく出て、あごが長くとがっていた。『覇王の家 上巻』

城攻めは苦手

この物事に慎重すぎるほどの人物は、その性格とは反対に、生涯、野外決戦を得意とし、気長を要する城攻めを最大の苦手とした。『国盗り物語 3』

ぜいたくは嫌い

家康は秀吉に仕えている時は、自分の毒気をいささかも見せず、つねに慇懃であった。しかし、その時期、内々の場で家来たちにひそかに洩らす言葉は、秀吉のあの派手なやりかたに染まるな、ということであった。『覇王の家 上巻』 

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