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顔を焼いてまで逃げた高野長英。『長英逃亡』吉村昭

逃げる長英、追う幕府 

 吉村昭の『長英逃亡』を久しぶりに読みました。日本有数の蘭学者である高野長英の6年4か月にわたる緊迫した逃亡劇が、緻密に描かれています。

 江戸末期、鳴滝塾のエースとして活躍していた高野長英。蘭学にかけては日本トップレベルの才能を持っていた長英は、医学書の翻訳ではあきたらず、国防に強い興味を抱き、兵書の翻訳をしたり日本沿岸に出没する外国船への対応について意見書を書いたりするようになりました。長英のその行動が幕府の怒りを買い、ついに捕らえられます。

 生き地獄の牢の中で牢名主にまで上りつめた長英ですが、このまま牢屋の中で死にたくない、という思いがふつふつと湧きあがり逃亡を計画します。

 しかし、脱獄は至難のわざ。牢はべらぼうに頑丈な上、牢生活は強烈な秩序、自治組織が存在し、江戸時代らしい監視システムが行き届いています。この本によると、江戸中期以降、脱獄事件は130年近くに渡り一度もないとのこと。

切放しとは

 長英は、牢屋を脱出する方法はただ一つ、火災の際の「切放し」しかないと考えます。

 切放しとは、火事が起きたときに焼死を避けるため、牢内の囚人を逃がす措置のことです。「3日以内に戻ってこい、戻ってきたら刑を軽くする、もしも帰ってこなかったら厳罰に処す」まあ、こんな感じです。戻らないとどうなるかというと、

雲の果てまでもさがしてひっとらえ、お前たちはもとより親族にいたるまできびしいお仕置きをする。

のだそうです。で、戻らず逃げて万が一捕まると、

期限内にもどらず逃走して捕えられた囚人は、軽い罪の者でもすべて死罪として首を刎ねられた。

ですって。こわっ。この切放しを長英は狙います。長英は、牢名主としての立場を利用して、牢外の下男に火を付けさせ、思い切って逃亡を図ります。

 ちなみに、過去の切放しで幕府の追及から逃れられたものはおらず、正直に戻ったら刑が軽くなるので、切放しで逃げる者はこれまたいなかったとのことです。

 ここから始まる長英の逃亡劇がきついんですよ。数年前、凶悪犯の逃亡劇が大きく報道されました。あの再現ドラマなども放送されました。あんな感じです。

 日本一取り締まりが厳しい箱根の関所を通過するシーン、雪深い山中で老母と再開するシーン、隠し部屋でじっと耐えるシーンなど、見どころが多いです。

硝石精で顔を焼く 

 長英は逃亡中に顔を焼きます。どこに逃げても自分の手配書が配られ、自分と過去にかかわりのあった人間はほぼ全員が何度も家探しを受けている、そういう状況に長英は愕然とします。6年以上も逃げられたのは、周囲のサポートのおかげです。

 顔を焼けば手配書の顔とは変わりますが、普通の顔ではなくなるので逆に目立ちます。だから「顔を焼いて逃げた」と聞くと、逃亡後すぐ焼いたのかな?と思いきや違います。捕まるまでのほぼ6年間、長英は自分の顔で生き、最後の最後に(逃亡生活に疲れて?)顔を焼くわけです。『長英逃亡』は上下巻合わせて900ページ余りの大作ですが、長英が顔を焼くのは下巻の最後800ページあたりです。

 長英が使った薬品は「硝石精(しょうせきせい)」というもので、アルコールか丁子油(ちょうじゅ)を加えると焼けるとのことです。

 丁子油をみたした鉢をとりあげた。油を左眼の下から頬一面に塗り、顎の部分まで広げた。

 鉢をおいた彼は、発おいljh煙硝石精の入った瓶をつかみ、密封したふたをとりのぞいた。ためらいはなかった。瓶をかたむけ、硝石精を頬に思い切ってふりかけた。

 目の前に炎が広がった。彼の口から野獣の声に似た叫び声がふき出し、体が後ろに倒れた。頬を押さえた手に痛みが走った。かれは、肉の焼ける匂いと赤い煙につつまれながらころげまわった。

 あまりの痛さにころげまわる長英。大やけどですから、処置を誤ると命にかかわります。

 一般の者は、やけどを負うと医者がくるまでの応急処置として、昔からよいとされているものを塗ったりする。もともとやけどは自然に治癒するものだが、それをつけたからと治ったと錯覚する。へちまの木、黒砂糖、味噌、醤油などがやけどの妙薬と伝えられているのも、そのような事情からであった。かれはかえってそれらを塗ると化膿をうながす原因になることも知っていた。

元医者の長英は、激しい痛みの中、冷静に対処します。どうしたかというと、

 膿水のこびりついた顔を、桶にみたした冷水につけた。やけどの部分には手をふれず、膿水が水にとけて落ちるのを待った。(略)

 膿水がのこらず落ちたのを知った彼は、鶏卵油をつくった。卵の黄身に菜種油と少量の焼酎をくわえて煮、冷やしてからやけどの部分に慎重に塗った。それは効果があり、痛みが日を追ってやわらいでいった。 

顔はひどく痛みましたが、もとの顔とは大きく変わったその出来栄えに長英は満足します。でも、この後すぐ捕まります。ほんとに残念。 

 それにしても、吉村昭の逃亡モノはおもしろい。

www.yama-mikasa.com 

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