読書生活 

本もときどき読みます

新年度初出勤の朝   

 地下鉄に乗りました。意外に空いていました。その車両の乗客はたった二人、私の前には初老の女性が一人座っているだけでした。発車のベルが鳴り、鞄から読みかけの本を取り出そうとしたとき、一人の女性があわてて駆け込んできました。そして、ふうっとため息をつきながら、私の斜め向かいに腰を下ろしました。

 60前後の女性と40代の男性(私)と20過ぎの女性、私たちの車両にちょうど三世代の人間が一人ずつ乗り合わせた格好になりました。中間の私からすれば、ふたりの女性は親でも妻でも姉でも妹でも娘でもありえない存在、つまり親近感がわかない存在であって、そのせいかどうかはわかりませんが、他人として妙に気になるところがあり、かと言って彼女たちをじっと見つめるのも失礼なことなので、なにを見るともなくぼけっと視線を泳がせていました。

 突然、斜め前の若い女性が、バッグの中から刷毛?やらケース?やらスティックのようなものを取り出し、慣れた手つきで化粧を始めました。それは想像していた以上に入念な作業で、メイクというのはこんなに複雑なものかとあっけにとられると同時に、女性の化粧を一部始終はじめてつぶさに見ることができるという稀有な時間に溺れ、気がついたときはもう下車駅でした。彼女も一緒に降りるようでしたが、仰向いた彼女の顔を盗み見するように視線をやると、そこにはくっきりと鮮やかな別人の顔がありました。

 考えてみれば、女性が化粧しているところをのぞくというのは、失礼なことです。のぞかれていることに気付けば、彼女はとたんに冷たいまなざしを私に向け返したことでしょう。でも、おかしなことに、居心地悪くなったのは私のほうでした。なぜかよくわかりませんが、行儀の悪さに腹が立った、とかそういうのではなく。

 そして、ある話を思い出しました。19世紀、ヨーロッパで働いていた日本人の話です。とある男が、それなりに立派な待遇でヨーロッパに留学することになったのですが、何かの手違いで留学生として扱ってもらえず、ほぼ奴隷扱いされます(後日連絡があり、留学生扱いとなりました)。長い船旅では水夫見習い扱い、着いたら着いたで身分の高い家の下働きをすることとなりました。その際の話。

    そこのお嬢さんの部屋を掃除していたら、お嬢さんが部屋にお戻りになられた。そのお嬢さんは自分の目の前で服を脱ぎ始め、全裸になり新しい服を着た。さも当然、といった様子で。そしたら、そこにお嬢さんのお兄さんが来て、「お前、あいつがいるのによく着替えたな」と言ったところ、そのお嬢さんが「お兄さんは、ビリー(飼い犬)がいたら、お着替えはなさらないの?それと同じことよ」と笑った、という話です。

 その日本人、言葉が分かっているのでとても悔しい思いをしたのです。ようは、「人間じゃない、動物に見られたって恥ずかしくないわ」と言われたわけです。それと同じだ!と。電車の中で化粧をしていた女性を見たときに無性に不愉快になるのは、見ている私が彼女にとっては他人どころか、犬や猫程度にしかすぎない、という事実を平然と突きつけられたからです。

 そう考えてどきりとしました。会議の時に寝ている人、いますよね。私も、徹夜のあとの会議でうとうとしてしまったことはあります。言い訳できません。電車の中の化粧女性と同じように、この時私もまた、相手を不愉快にさせてしまっていたでしょう。電車の中の化粧も飲食も、会議や授業で寝たり内職したりするのも、さらに、飲み会で露骨につまらなそうにするのも、同じ理由でよくないです。

 新年度初出勤です。会議が2つ入っています。私の周囲からの信用は「下げ止まり」と言えるくらいありませんが、今年こそ、がんばってみようと思います。まず、「寝ない」「新しい同僚の顔と名前を覚える」今日はこれで行きます。