先月、「大学生の読書時間0分が5割に」というニュースがありました。
この記事に対し、「読書はしないといけないの?」という投稿が朝日新聞に掲載されました。
朝日新聞の読者欄には「みなさんはどう思いますか?」というような、他の読者への問いかけ投稿がよく見られます。そのような問いかけ投稿に対して、しばらくして「私はこう考える」というレスポンス特集が組まれることがあります。すべての問いかけ投稿に特集が組まれるわけではありません。どのような問いかけ投稿に対してレスポンス特集が組まれるかはわかりませんが、この「読書はしないといけないの?」という声に対してのレスポンス特集が、4月5日の朝刊に組まれていました。わたしはこの投稿がとても気になっていたので、今回の特集はとても嬉しかったです。
まず、「読書~」という投稿のおさらいです。投稿者は大学生です。
ざっくりまとめると、
「私は読書をしなかった。しかし、特に困ることはなかった。読書も楽器やスポーツと同じで趣味のひとつ。読んでも読まなくても構わないのではないか?読書をしなければいけない理由があるなら教えて頂きたい」
というものです。
この投稿に対するわたしの考えは、以下の通りです。
今回の特集では、4名の方の考えが掲載されています。とても興味深く読ませていただきました。この4名の考えを、わたしの感想を交えながら紹介させていただきます。
まず、一人目。「大人は読書を押し付けないで」投稿者は中学生です。
私も時間を削ってまで読書する必要はないと思う。なぜなら、効率が悪いからだ。読書は勉強に役立つと大人は言うが、読んだ本が必ずしも試験に役立つとは限らない。役に立つのか分からない「勉強」を、時間を削ってまでする必要があるだろうか。
読書は趣味の範囲でするものだと思う。私は読書に魅力を感じない。だからしない。楽しいと思う人がすればいい。読書を押しつけるのは、運動が苦手な人にスポーツを押しつけるのと同じである。楽器が弾けない人に、今すぐ弾けと言っているのと同じだ。
自分が言われたら、きっとおかしく思うであろうことを、大人は平気で私たち子供に言ってくる。視野が狭く、先入観にとらわれている。ある一定の角度からしか物を見ないで、つべこべ言うのはやめてほしい。
最初に結論をズバリと述べ、次にその理由を具体例を挙げてわかりやすく説明しています。「読書をしない」ときっぱり言い切る中学生が、このような説得力のある意見文を書けることに驚きました。驚くと共に、読書を好きになったらもっと書けるようになると思うのですが、これもこの子には「大人の先入観」ととられることでしょう。
二人目です。「人との出会いを求めるなら」投稿者は64歳の方です。
私は大学受験勉強を終えてようやく読書を始めました。すると、世の中は、私の知らないことだらけでした。
本を読んで、例えば私は哲学者ヘーゲルに出会い、弁証法を知りました。19世紀初頭のドイツ人と知り合いになったのです。14世紀のダンテにも会いました。彼のベアトリーチェに対する愛を、はたして私は超えられるかと思いました。
現代人や日本人にもたくさん出会いました。現実に出会った人よりは、本で出会った人がはるかに多いのです。
いかにたくさんの人と出会うか、それが読書なのだと思います。人との出会いを求めなければ、読書は無用と言えるかもしれません。だとしたら、あなたの生き方が問題になるでしょう。たくさんの人に出会いたいか、それとも狭い人間関係に満足するのかということです。どちらが幸せかそれは誰にもわかりません。
言いたいことはわかりますが、少し難しいです。「彼のベアトリーチェに対する愛を、はたして私は超えられるか」という部分、何のことやらさっぱりわかりません。最後の文章も気になります。「どちらが幸せかそれは誰にもわかりません」という部分です。「読書をした方が幸せだ」とはっきり言ったらいいのに。衒学癖(げんがく:学問や知識をひけらかすこと。わたしにもこの癖あります。読書好きを公言している方に多い困った癖です)がにじみ出ています。このようなはるか上からのぼんやりとした語り口では、先の中学生の琴線にふれることはないでしょう。
三人目です。「本が嫌いなら無理する必要はない」50歳の方です。
子供の頃、家族との関係に悩み、長い時間を共にするのがつらかった。幸い、家には父の本があふれていた。絵本から大人の小説へと、読書に没頭していった。習っていない漢字を調べながら未知の世界にふれるので、国語や社会の成績はよかった。大人になってからも、様々な場面で役に立った。
だが、私はメリットのために本を読んできたわけではない。単純に好きだからだ。本を開けば違う時代や国に行け、全く別の人生を感じることができる。場面や言葉を自分で自由に解釈しても、誰にも干渉されない。読書は私にとって人生の一部であり、生きる糧だ。
ただ、本を嫌いな人が無理することはないと思う。作家もつらい気持ちになってまで、読んで欲しいとは思わないだろう。大人だって読んでいない人はたくさんいます。
本を好きな理由は違いますが、「本を嫌いな人が無理することはない」には全く同感です。また、「大人だって読んでいない人はたくさんいます」は本当にそうです。約束まで時間がある、とか、待ち合わせ場所に本屋を指定された、というような理由でぶらりと本屋に入り、おしゃれな装丁の「蜜蜂と遠雷」(装丁を外すとこれまた真っ黒でクール!私は読んでいませんが)とか、王様のブランチで映画化するって言ってたなあと「沈黙」(これは昔に読みました)などを手に取り買って、読まずに家にほかっておく、その程度の人がごまんといます。そしてそういう人も、若者の本離れというニュースを聞いて眉をひそめます。読書が好きではない人は、無理に読まなくてもいいのです。そして、そういう人は活字離れのニュースを聞いて「私も読んでないや」とつぶやく程度の反応でちょうどいいんです。自分のことは棚に上げて、「近頃の若いやつは~」的な態度をとることが間違っているとわたしは言いたいのです。そういう方たちに聞けば、「俺だって若い頃は読んでたぜ」と言います。大嘘です。大人というのは過去を美化する生き物ですから。
最後です。「あなたのお便りこそ本の原点」70歳の方の投稿です。
気づいていないかもしれませんが、投稿者のお便りこそが「本」の原点なのです。本は、伝えたいことを言葉に託し、多くの人に伝えるツールですが、それだけではありません。言葉の奥に書いた一人ひとりの人間が存在しているのです。書いた100人の人生がとじられています。
人は一人では生きていけません。社会という大海原に出て、無人島に一人残されてしまった心境になることもあるでしょう。そんな時、自分の前に便りの入った瓶が流れてきたら、手に取って読み、自分以外の人がいることに感動するのではないでしょうか。
それは何物にも代えがたく、あなたに生きる力を与えてくれるでしょう。読書とは瓶に入った便りを受け取ることです。あなたのお便りと同じ力を持っています。素晴らしい本に出会ってください。
「ああ、わたしと同じことで悩み苦しんでいる人がここにもいる!」と思わせてくれる本は確かにあると思います。こういった本に巡り合えることが、読書生活の最大の魅力の一つだと思います。しかし、これを期待して本を手に取ることは、あまりおすすめしません。人それぞれ顔や性格が違うように、人によって響く本も違うからです。「〇〇に悩んでいる人におすすめ」というあれ、わたしはあの手の本に救われたことは今まで一度もありません。皆さんもないでしょう。その手の本は、求めているうちは出会えないものなんです。探し物が見つかった時はすでに事が終わっていた、という感じです。自分を救ってくれそうな本を片っ端から探し、読み、放り投げ、また読む。これを繰り返し、自分の背後に本の山ができた時、その本の山のふもとから答えが染み出てくる、そういうものです。
まとまりませんが。