朝日新聞(3月8日)の読者欄に、「読書はしないといけないの?」という大学生からの投稿が掲載されました。この投稿がとても気になり、わたしなりの読書に対する考え方をこのブログに書きました。
この大学生からの投稿には、わたしだけでなく多くの読者の反響があったようです。4月5日の朝日新聞の読者欄には、「読書はしないといけないの?」という投稿に対する4人の方々の意見が掲載されました。この4人の方々の意見もとても興味深く、わたしの感想とともにこのブログで紹介させていただきました。
すると先週、この「読書はしないといけないの?」に対する2度目の特集が、朝日新聞の読者欄に組まれました。今回も、4人(前回とはもちろん別の方です)の方々の意見が掲載されています。前回同様、わたしの感想を交えながら紹介させていただきます。
一人目。「ネット上にも糧になる言葉はある」26歳の会社員の方の投稿です。
私は学生時代から本好きで、今でも月1万円ほど購入する。本は紙媒体でないと読まないこだわりがあるが、私がただ好きなだけであり、それをほかの人に押し付けようとは思わない。
本を読まずとも、物事をしっかり考えている方に出会い、感服することが多々ある。本を読めば必ず知恵や教養が身につくとは限らないかもしれない。むしろ書籍や活字という「枠」に閉じこもっているからこそ、見えなくなっていることもあるのではないか。
今では、インターネット上にも、生きる糧になる言葉がたくさんある。私はある漫画家のツイッターをよく見るが、その人の言葉は私の心にしみ込み、温めてくれる。それは書籍とはまた違った「言葉の力」だ。活字業界が潤わない原因を若者ばかりに押し付けるのではなく、時代の流れをよく見据えてほしい。
わたしは、「紙媒体でないと読まない」ほどの強いこだわりはありません。しかし、デジタル媒体よりも紙媒体の方が好きなところは同じです。また、「物事をしっかり考えている方に出会い、感服することが多々ある」「インターネット上にも、生きる糧になる言葉がたくさんある。私はある漫画家のツイッターをよく見るが、その人の言葉は私の心にしみ込み、温めてくれる」なども全く同感です。しかし、少しひっかかります。紙媒体でないと読まないとおっしゃる方が、紙媒体ではないツイッターを利用しているとのこと。もう少し聞いてみたいです。
二人目。「デジタル媒体だって本なのだ」49歳の会社員の方の投稿です。
スマホが普及した今日の日本では、大学生に限らず、読書習慣のある人の割合は減っていくかもしれない。
読書を、様々な人の持つ多様な考え方や価値観を文字を通して吸収する行為であると考えてみよう。スマホやパソコンで見る文字も文章表現であるから、紙を使わないデジタルな本と考えてもいいのではないだろうか。
アナログな印刷物から、デジタルな電子ドキュメントに記録媒体が移りつつある結果なのだと思う。企業でも、書類をデータ化して保存する時代だ。新聞だってスマホで読み、意見も投稿できる時代である。
読書は紙の本に限るというのは、懐古主義的な発想ではないのだろうか。投稿者の学生さんはそんな考えは気にせず、自分の関心のある分野の知識をいっそう広げて欲しいと思います。
まず、確認したいことは、この「読書をしないといけないの?」を投稿した大学生は、(デジタルを含めた)読書の価値について聞いているわけで、デジタルでもいいでしょう、と主張しているわけではありません。ですから、この二人目の投稿者は「デジタルだろうがアナログだろうが読書を押しつけないでくれよ」と言っている大学生に「デジタルもアナログも変わらないよ。デジタルをどんどん読みなさい」と言っているわけで、質問と回答がかみ合っていません。先の大学生からすると、そういうことじゃないんですけど、と思われるのではないでしょうか。
三人目です。「紙の本 深く読むには最善」53歳の方の投稿です。
私は「読書は人間の本能であり、本は読書のための最善の手段である」と考える。読書には、過去の学問の成果や実用的な知識を得ることと物語や詩を楽しむ目的がある。ただ、そうした「読書」体験は「本」だけでなく、映画、テレビ、ウェブページでも可能になった。読書の目的は変わらない。読書不要と感じられるのは、むしろ媒体についてではないか。
最初の物語と言われる「ギルガメシュ叙事詩」は古代メソポタミアで生まれ、世界中で数えきれない物語が作られてきた。知識を残し、物語を作り、読むことがなくなるとは思えない。紙の本の地位は脅かされているが、形として本を残したい欲求もなくならないだろう。ネットから切り離された環境で、深く集中して読むには紙の本はまだまだ有用であり、それを若い時に行うことは重要である、というのが私の考えである。
読書の目的を「人間の本能」としました。ずいぶん大きく出ました。なるほど。わたしとは理由が違いますが、紙媒体をよしとしているところは同じです。「最初の物語と言われる~」このあたりから、衒学(ゲンガクです。わたしにもこの癖があります。前のブログにも触れましたが、読書好きを公言する方に多いのです)臭が鼻につきます。最後に「ネットから切り離された環境で、深く集中して読むには紙の本はまだまだ有用であり、それを若い時に行うことは重要である」としていますが、「ネットから切り離された環境」に行く必要があるのはなぜでしょう。「若い時に行うことは重要」なのはなぜでしょう。ギルガメシュ叙事詩のくだりをカットして、その空白部分に理由を書いた方がわかりよかったと思います。
最後です。「良書探すのは難しいけれど」41歳の会社員の投稿です。
読書をしないといけない確固たる理由はありません。投稿者の方は学業の「手段」としての読書はされているようですし、アルバイトや勉強など社会で活躍するための「目的」において、色々と経験を積まれているとお見受けします。
世の中、娯楽はたくさんあります。書籍もうんざりするほど書店に並んでいます。出版不況と言われる昨今でも数多く本が出され、まさに飽和状態です。その中から自分にとっての良書を探すことは難しいかもしれません。なぜこの状況で読書時間だけを問題視するのか、と思う気持ちも分からなくはありません。
しかし、有益かどうかで敬遠するのは惜しい気がします。本の作り手は人です。作者の考えに触れ、何か発見し、そして自ら考える行為は醍醐味です。「無駄」と決めつけず、気になったものを一冊手にとって頂けると幸いです。
「読書をしないといけない確固たる理由はありません」と質問に対する答えを冒頭にあげています。わかりよいです。そもそも「読書はしないといけないの?」と聞かれているわけですから、「しないといけない」か「しなくてもいい」か立場をはっきりさせてから論を展開していただかないと。また、「アルバイトや勉強など社会で活躍するための「目的」において、色々と経験を積まれているとお見受けします」と大学生の投稿に一定の理解を示すところに、この投稿者の度量の大きさを感じます。ここからです。読書をする確固たる理由はないのですが、読書をすすめたいわけです。こういうとき、何と言うか。この方は、「有益かどうかで敬遠するのは惜しい気がします」としています。とても上手です。柔らかさと知性を感じます。
最後の投稿者の考え方に共感し、書きぶりに驚きました。わたし、これから様々な場面で使います。
「有益かどうかで敬遠するのはもったいない」と。