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生きる目的を探すために生きる 『司馬遼太郎が考えたこと 2』司馬遼太郎

 すべての人が自由で平等であるべきだ、とのたてまえが当たり前になったのはつい最近のことです。人類は長い間、人は生まれながらに身分の上下があるという社会で生きてきました。身分制はもちろん今の常識に照らせばよくないですが、社会の安定には相当に貢献してきた制度であると言えるでしょう。そうでなければ、あれほど長い間存続しえたはずがありません。

 身分制度の下で生活していた人は不幸だったのかと言えば、必ずしもそうとばかりは言えないでしょう。むしろ、相対的に幸福な人の割合は多かったのではないかという気がします。自殺者は今年間約3万人ほどです。人口比にすれば、おそらく江戸時代よりも多いでしょう。確かに平均寿命は飛躍的に伸びました。餓死する人もほとんどいません。物質的には恵まれているに違いありませんが、それは精神的に幸福になったことを必ずしも意味しません。

 みんな同じという原則平等な今の社会は、かっこいい顔をしているとか、家がお金持ちだとかも含め、そういう能力がある人には有利です。しかし、能力がない人にはかなり厳しい。能力はもともと不平等ですので、原則平等を強調すればするほど、能力のない人にはつらいことになります。厳格な身分社会では、同じ身分でありさえすれば能力に少々差があっても、暮らし向きにそれほど差がつくわけではありません。能力があり余っている一部の人には不満でも、大部分の普通の人にとっては厳しい競争社会よりはむしろ精神的には楽だったことでしょう。同じ身分の人に対する嫉妬はあっても、身分の上の人に対する嫉妬はあまり生まれなかったと思います。人は分を守り、分に安じて、日々の暮らしの平穏無事を祈っていたことでしょう。

 司馬さんがおもしろいことを言っています。今の日本は有史以来初めての大変化が訪れている、それは「飢えからの解放」だ、と。今までの日本は、周期的にやってくる天災や飢饉から完全に自由ということはありえなかった、そして、飢餓や社会の緊張など社会が支えていた原理はもう通用しないとしています。

 司馬さんはこのような時代を見据え、こう言っています。

とりあえず、自殺者が増えるだろう。飢餓との戦いがあったからこそ、人間は生き続けてきた。この条件がなくなった今、生きることへの執着はかなり希薄になっていくだろう。1970年代の間に、この難題をわれわれは切り抜けられるだろうか。

 司馬さんがこう書いたのは、1972年です(『司馬遼太郎が考えたこと 2』)。予想は的中し、自殺者は増え続け1970年代どころか2010年代になってもこの難題を切り抜けられていません。今は「生きる目的を探すために生きる時代」です。この先どうなるのでしょう。