全8巻。司馬さんの作品の中では、一二を争うお気に入りです。日露戦争当時の日本を熱く描いています。
この時代の世界状況について、司馬さんはこう言っています。
19世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義の仲間入りするか、その二通りの道しかなかった。後世の人が幻想して侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ当時のあるべき姿とし、その幻想国家の架空の基準を当時の国家と国際情勢に割り込ませて国家のありかたの正邪をきめるというのは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。世界の段階は、すでにそうである。日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立をもたねばならなかった。
当時の状況を見事に言い得ていると思います。司馬さんは、「やるかやられるか、それしかなかった時代であり、みんなで仲良くという発想は今だから言えることなのだ」と繰り返し言っています。
これとは直接関係ありませんが、昭和初期から太平洋戦争に至るまでの日本を作品の中で度々強烈に批判していた司馬さん(予備役として太平洋戦争に参戦していた)は、「なぜその時反戦しなかったか」とよく聞かれ辟易としていたようです。そのての質問が大嫌いだったようで、
歴史は段階をもって進んでいる。この一事が理解できない人間とういうのは一種の低能かもしれない。
こうこき下ろしています。歴史を見る一つの考え方ですね。
主役の3人はもちろん、日本海海戦での東郷平八郎、日本人スパイ明石元次郎らの活躍にも血がたぎります。長いこの話の中でわたしが最も感銘を受けた場面が、旅順攻略の児玉源太郎のくだりです。
馬鹿馬鹿しい肉弾戦により何万もの兵を無駄に殺し、なおその死を次の戦術に生かそうともしない。さらなる肉弾戦を続けようとする乃木とその参謀たちに怒り狂う児玉。現場に向かい直接指揮をとります。すると、現場には何万の敵兵に囲まれなおかつ奮闘する百名足らずの日本兵の姿が見えます。
「名誉ある勇士の死がせまっている。それを救おうともせず、またその山頂の一角の確保を拡大しようともしないというのは、どういうわけだ」
この連中が人を殺しきたのだ、と思うと、次の行動が常軌を逸した。かれは地図のむこうにいる参謀少佐におどりかかるなり、その金色燦然たる参謀懸章をつかむや、力任せに引きちぎった。「貴官の目はどこについている」つぎの言葉が長く伝えられた。
「国家は貴官を大学校に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない」
少佐は顔面蒼白になって突っ立っている。この少佐は、児玉がなぜ怒っているのか、理由が分からないらしかった。
稜線に双眼鏡を出して203高地の頂上をちかぢかと展望した。死んでいる者、生きて動いている者がよく見えた。山頂の一角をなおも死守している百人足らずの兵の姿が児玉には感動的であった。かれらは高等司令部から捨てられたようなかたちで、しかもそれを恨まずに死闘をくりかえしている。
「あれを見て、心を動かさぬやつは人間ではない」参謀なら心を動かして同時に頭を動かすべきであろう。頭の良否ではない。心の良否だ。ぞろぞろあがってきた参謀たちは、なにか義務的にこの上まで登らされたようにぼんやりしている。(だれも責任を感じていない!)と、児玉はおもった。責任を感じているならこの場でもすぐ処置があるべきだった。ところがみな見学者のように無責任な顔をしている。
熱い。この熱がわたしを殴りつけ動かします。どうしようもなくやわなわたしですが、ここ一番では児玉さんに横についていてもらっています。
同じく日露戦争を描いた「海の史劇」(吉村昭)をあわせて読むと、よりわかりよいです。