数年前に千代の富士が亡くなりました。わたしにとっての最強の横綱は白鵬でも貴乃花でもなく、千代の富士でした。
その千代の富士が現役時代を振り返って、
とりあえず今日一日だけ全力で稽古しよう。明日になったら休めばいいと思いつつ、明日が今日になり、あさってが今日になり、結局毎日努力した。
というようなことを言っていました。
同じく今日一日だけを考えるにしても、多くの人はとりあえず今日一日だけ遊ぼう、明日になってから努力すればいいと思いつつ、明日が今日になり、あさっても今日になり、結局毎日遊んでいた、ということになりかねません。
小さいときのわたしは、まさにその典型でした。子どもは今日一日楽しいことをして、明日のことは考えません。千代の富士のように、今日一日の努力と称して明日のために苦労をするのは、人間の大人だけが行えるとても特殊な行動なのだそうです。
人間以外の動物はそんなことはしないようで、例えばライオンは草食動物を捕まえ食べますが、満腹になったときはただごろごろと休んでいるだけで、狩りをすることはありません。必要以上にエサをとっても食いだめができるわけではありませんし、人間のように冷蔵庫といった神器をもっているわけでもないからでしょう。
ライオンは明日のことを考えないというよりは、むしろ、ライオンの意識にとって明日という日は多分ないのだと思います。子どもも同じです。動物や子どもにとって、未来という観念はないのでしょう。
世間は「今日一日の努力」をする人間を勤勉だとほめ、「今日一日の楽しみ」だけの人間を非難するが、そんなにいけないことなのでしょうか。
池田清彦さんは、こう言います。
こういう人が非難されるのは、未来のことを計画的に考えねばいけない、という強い文化的なバイアスが人間社会にかかっているからである。このバイアスは、人間社会に文明をもたらした半面、未来がない(と思い込んだ)人間にとっての桎梏になったこともまた確かであろう。病気や失業で自殺するのは、あるべき未来に希望がもてないと思いこむからに他ならない。
未来の楽しみのために、現在の苦しみに耐えられるのは、未来の楽しみと現在の苦しみをトレード・オフできるとの考えに基づいている。現在は空手形(からてがた)でないことは確かであるが、しかし、もしかしたら未来は空手形かもしれないではないか。未来が空手形であれば、このトレード・オフは成立しないのだ。
そして、こう続けます。
未来が空手形となる確率は年と共に加速度的に増大するのである。「今日一日の努力」は未来がある人の言葉であって、50歳以上の老人には「今日一日の楽しみ」こそふさわしい言葉なのである。70歳のジジイに、20年後のことを考えて努力しろ、と説教する馬鹿はいない。
その通りかもしれません。明日病気で倒れる可能性も、リストラされる可能性も、若者より老人の方がはるかに高いのですから。ある程度年をとったら、楽しいことは先送りにしないで、即実行に移した方がよさそうです。暇になったらゆっくり温泉にでも行きたいな、と思ったら、有給休暇を取ってすぐに温泉に行きましょう。来年あなたは脳梗塞で旅行どころではないかもしれません。
こんな人ばかりだと会社は倒産し、不況はますますひどくなる、と言う人もいるでしょう。この国は老人がお金を貯め込んでいるからよくないのです。中高年が遊びほうけてお金を使えば景気はよくなりますって。