人に批判されるとがっかりします。年を取ればなおさらです。批判していただいてありがとうございます、なんて思ったこと、ほとんどありません(わたしの経験上)。
がつがつ批判してくる人いませんか?とにかく「あげあしとってやろう」という目で話を聞いてるんです。「それで?それで?」と聞いてくる、本当に頭にきます。え?いない?わたしのまわりだけですか…。わたしに問題があるのかな?嫌われるようなこと…思い当たることが多すぎます。
この本には、「批判」という行為についてこう書いてあります。
少なくとも、学問の世界においては、他人の意見を批判することが許されている、ということだ。いや許されているというよりも、奨励されているといってもよい。柔道や剣道の道場では、相手の胸ぐらをつかんで投げたりすることが認められている。強くなるためには、そのような訓練が必要なのだ。
それと同じで、倫理学を学ぶ場においても、教師を含めて他人の意見を批判することが認められている。自由な批判は、自分の修練のためだけではなく、学問の発展にとっても不可欠だからだ。そこで、倫理学を学ぶときには自分が道場にいるものと思って批判的思考を身に付ける訓練をすることが大切だ。
学問の発展に批判的思考は不可欠とのこと。なるほど、納得です。おおいにやっていただきたいものです。わたしは見てますから。
続けます。
もちろん、武道に一定のルールがあり、反則が定められているのと同様に、倫理学にも他人の意見を批判する際に使ってはいけない反則技がある。
たとえば「そういう非倫理的な意見を持っているあなたは最低ですね」などと相手の人格を攻撃することは反則だ。倫理学の仕事は、ある意見が非倫理的と見えるなら、その理由を明らかにすることだからだ。相手の間違った意見を正そうとするのではなく、間違った意見を持っていることについて相手を馬鹿にするのは、場外乱闘を仕掛けるのに等しい行為だと言える。
そうだそうだ!特に「相手の間違った意見を正そうとするのではなく、間違った意見を持っていることについて相手を馬鹿にするのは、場外乱闘を仕掛けるのに等しい行為だと言える」ここ、ここです。
人格を否定するのはいけない、わかりきっていることのようですが、実践するのはなかなか難しいようです。
どこかで読んだ話ですが、福沢諭吉がアメリカに行き議会を見学したときのこと。福沢さんは、その白熱した議論を見てすっかり感心し、これを日本にも取り入れなければいかん!と考えます。
その日の夕食会に招かれて行ったら、同じテーブルでさっきまであれだけ激しく議論し合っていた二人が、肩を抱き合うばかりに談笑している様子を見て不思議に思います。あんたたちはさっきまであんなにいがみあっていたじゃないか、よくそんなになかよくできるなあ、と。
福沢諭吉ですらそう思うくらいですからね。批判や議論のねっこの部分をわたしが理解できないのも当たり前です。
先ほどの本に戻ります。
また、道場を一歩出た場合にも注意が必要である。日常の会話において親や友人の意見を批判するのは、道を歩いている人にいきなり大外刈りをかけて倒すのと同様、とても危険なことなのだ。
そうでしょう。いるんですよ。ただ歩いているだけなのに、いきなり背負い投げかましてくる人が。木刀で喉元をついてくる人が。
この本、なかなかおもしろいです。著者の児玉さんは、個人的には批判されることについて、
良薬は口に苦し、で執拗に批判してくれる人がいなければ、われわれはよい生き方ができないだろう。人は自分を批判するのは苦手だし、他人に批判されるのも苦手だ。だが、マルクス・アウレリウスが言うように、われわれは他人に批判してもらうことを大事にする必要がある。
と、あとがきで言っています。児玉さんも批判されるのは苦手なんだそうです。ただ…マルクス・アウレリウスって?あとがきなので、もう少しフランクに書いてくれたら助かります。これは「批判」じゃありません。児玉さんへの「お願い」です。
この本の主題はもちろん「功利主義」です。なかなかおもしろいので、別の機会に書こうと思います。