「アイデアは考えるものではない、降ってくるものである」と思っていました。しかし、「ただ待っていても降ってはこない」と、この本で勝新太郎が(正確には著者が)教えてくれました。
この本では、「アイデアは待っていても降ってこない、勝新太郎の天才的な仕事は、執念ともいえる仕事への情熱から生まれたものだ」と書かれています。
今回読んだこの『サブリミナル・インパクト』は、東大、MITなど知覚心理学や認知心理学を学び、現在カリフォルニア大学教授で研究を行っている専門家が書いた本です。偉い人が書いた本だからありがたく読みましょう、と言っているのではなく、この本が、勝新太郎と全く違う視点から「天才」について書いている本であるということが言いたかったわけです。そして、全く違う視点にもかかわらず、最終的に同じような結論に達していることに衝撃を受けました。ということで、紹介します。
まず、「独創的な才能」とよく言いますが、「独創的な才能」とはどういう能力か、と問い直します。この本では、
全体的な状況を把握し、顕在知(顕在認知過程)と暗黙知(潜在認知過程)との間を自由に往還しつつ、考え続けられる人(能力)
としています。
難しい言葉が連発していますが、すごくざっくり言うと、今勉強している課題についての知識(顕在知)と、昔勉強したけれど忘れちゃっていてすでに無意識になってしまっている知識(暗黙知)をフルに使って考え続ける人、ということです。もっと言うと全身全霊を使って考え続けている人、ということではないか、いや、違うか?
そして、このような人たちに降りてきたアイデアを形にしたものが「天才の仕事」とだと言います。
このような能力は訓練で向上するような性質のものなのか。科学の第一人者が出した「創造性の訓練法」とはなにか。
本書では「天才の仕事」にはどのようなものがあるか、それが脳の中でどのように行われているか、についてまず考えています。
著者によると、その「天才の仕事」には二パターンあると言います。一つ目は、「天性」のもの。我々凡人には計り知れないものです。超ド級の大天才が稀にいる、その人たちのことは正直よく分からない、とのことです。
天才の多くは一発屋的なのです。これは科学の世界に限らず、たとえばエンジニアリングの世界もある程度はそうだし、小説家や音楽家にしても、ドフトエフスキーやモーツァルト、ベートーベンのような超ド級の大天才を別にすれば、真の傑作は一本だけということが多いようです。
天才は二度と繰り返せない。そしてそのことは、単に天才的な仕事の困難さ、希有さを示しているだけではなく、文脈依存的、状況依存的なダイナミックさとはかなさを示しています。
ということで、独創的なアイデアをばんばん出す人たちは「ド級の天才」として、ひとまず横に置いておきます。ちなみにポップスのヒット曲を連発する方たちのことは、「業界のシステムが働いているので別」だそうです。
「天才の仕事」の二つ目は、本人にも自覚できないレベルでの「スパーク」が起こる場合です。この「スパーク」こそがわたしたち凡人のターゲットとするものです。この「スパーク」をもたらす方法、これが創造性の訓練法となります。
独創的なアイデアはほとんど「受け身にむこうからやってくる」という偶然性を装った立ち現れ方をする
「偶然に現れる」ではなく、「偶然性を装った立ち現れ方をする」のです。そして、「スパーク」を起こせば、「偶然性を装った立ち現れ方」で独創的なアイデアが生まれるわけです。降ってくるのではなく、降ってくるような現れ方をするということです。
さらに、「スパーク」の発生条件とは。
遺伝子や環境、教育などの相互作用で本人の辿ってきた来歴と、その時代の社会の文脈(状況)、それらが奇跡的に、予測しがたい形で融合する
なんだそりゃ!。ようするに、「スパーク」は起こりづらいのだと。
もうわかった、前振りはもういい。その「スパーク」を起こせる確率を高める方法をとページをめくりました。
ざっくり言うとこうなるようです。三つの段階があります。
まず、一つ目。
よく全体の状況を分析し、しっかり把握してから忘れること
忘れることで、その状況や知識を顕在知から潜在知の領域に貯めこむ。電池を充電させるようなものだとのことです。
二つ目。
本能のおもむくままに遊ぶこと
過激な刺激を与えるとのことです。
この場合の刺激というのは知的、論理的な刺激とは限らず、音楽のような動的な刺激、スポーツのような身体的刺激、長い節食後のグルメ三昧とか禁欲後のアルコールやセックスなど…
そうしているときに、自分の心の潜在的な部分からの微妙な信号、ささやきに注意を向ける。気になることは書きとめる。自分の言い間違いや記憶違い、行為の誤りに注目してみる。夢を書きとめるのもこれに似た意味があるでしょう
そして、三つ目。最後にやることは…
再び、意識的、論理的、分析的な顕在知の営みに戻ること
勉強する、ということです。これを繰り返すことで、顕在知と潜在知の往還を繰り返すこととなり、これを持続する努力をする、とのことです。
誤解を恐れずざっくり言うと、
つねに何でも頭に入れ、忘れてまた考えて、ときにドカンと遊び、遊びながらもそのことを心のかたすみに置き、また考える。
これは、勝新太郎のやってることと同じです。
最後にこの著者から一言。
「なんだ、その程度ならわかっているよ」という読者の声が聞こえてきます。「お前自身、こんな努力はしてないじゃないか」という自分自身の声も。なので、これくらいで勘弁していただきます
「周辺に核心がある」という言葉がよく出てきます。核心部分にだけ目を向けていてはよくない、周辺に核心がある、と。なんとなくわかります。なんとなくですが。
周辺分野の雑読、乱読にも大切な意味がありそうです。今解決したい疑問を解くため読書もありですが、暗黙知を増やすための読書の重要性を改めて認識しました。