読書生活 

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人を先に、自分を後に 夏の思い出

 夏の小さな思い出を一つ。

 昨年の夏、横浜駅から東海道線に乗りました。電車は大変な満員で、クーラーは動いてましたが、あえぐような暑さでした。わたしの隣には、制服を着た10歳くらいの小学生が立っていました。男の子です。

 わたしの前の席が空いたので、隣の小学生に「どうぞ」とすすめたら、少年はわたしにぺこっとおじぎをしただけで座ろうとしませんでした。少年の目の前の席が空いても、その少年は満員の人ごみにもまれながら、自分の前の空席に目をくれようともしないのです。

 わたしは、この少年のしつけのよさにとても驚きました。この少年が毅然として立っている姿はただただ見事で、神々しいといったらいいすぎでしょうか、少年のまわりだけ少し涼しくなるくらいの、凛とした雰囲気を醸し出していました。育ちのよさがわかります。

 「電車が混んでいるんだから、とっとと座りなさいよ」と考える方も、もちろんいらっしゃるでしょう。ただ、わたしはこの少年を眺めながらいろいろと考えさせられました。

 人の行動を見て「ああ、美しいなあ」と感じる瞬間とはどういうときか。たとえば、実際の利害関係が起こったときに、自分を犠牲にすることができるかどうか、という点におうところが大きいのではないか、と。簡単に言えば、「人を先に、自分を後に」できるかどうか。

 さらに言えるのは、これを自分とまったく関係のない人間関係に投げ出されたとき行えるかどうか、ということです。「旅の恥はかきすて」と言います。もう二度と会うことのない人たちとの間で、「人を先に、自分を後に」できるかどうか。人のために何かできるかどうか。

 以前、夜の電車の中で、酔った女性が吐いてしまうという場面に立ち会ったことがあります。その車内には吐しゃ物特有の臭いが漂い、皆が眉間にしわをよせます。その女性、泣きながらハンカチで自分の吐いた物をぬぐうのですがとてもぬぐい切れません。電車の揺れにあわせて吐しゃ物が広がり、その付近に座っていたお客さんは席を立ち、別の車両にうつる始末です。

 そしたら、初老の女性がビニール袋とポケットティッシュをもってその女性の吐瀉物を一緒にぬぐい出しました。それを見て別の男性が、網棚においてあったスポーツ新聞を使ってふきはじめました。

 わたしは何もできず、ただただ座っていました。こういうとき、とっさに動けるかどうか、そこで人の器ってはかれるものです。自分の器の小ささに悲しくなりました。吐しゃ物はさわるなとよくいいますが。わたしが動かなかったのは違う理由だったんです。めんどくさい、とか、なにやってんだ、とか、考えちゃったんですよね。うーん。