織田信長がバイセクシャルだったという話は有名です。今はやりのボーイズラブ(男色)は、戦国武将の間では珍しいものではなく、一般的に受け入れられていたようです。森蘭丸を愛した信長だけでなく、今川義元や伊達政宗、徳川家康など、男色の逸話がある武将は数多くいます。
戦国時代の男色とは
戦国時代の男色とはどのようなものだったのでしょう。司馬遼太郎の『城塞』から引用してみます。
この奇妙な性習慣は戦国期に武士の間に流行した風俗で、なにごとも美化することのすきなこの時代人は、この道まで美化しようとし、その衆道美を教える家元まで存在した。衆道の第一は、両人の関係は義兄弟であり、たとえ主人や父兄に背くことがあっても互いに裏切ることはしないという苛烈なものであり、このために誓紙までとりかわしている。『城塞 中』p121
誓紙まで取る苛烈な契り。一夜の遊びでは済まされないようです。家元まで存在するとは、まさに「道」。奥が深い。
ノーマルなのは秀吉くらい
有名な武将の中で、その手の噂がなく女性一筋だったと言われているのは豊臣秀吉くらいのものです。ただ、信長に拾われる前の乞食少年だった時代に、今川家の男色趣味を聞きつけ、体を売ろうと駿河まで歩いて売り込んだものの、「自分の顔を見たことがあるのか」と笑われたと言います(『新史 太閤記 上』)。
また、秀吉の女好きは常軌を逸したもので、自分が命令を出した朝鮮出兵により、主のいなくなった武家屋敷に夜な夜な訪問し、その美人妻を寝取っていったというゲス過ぎる逸話も残っています。
織田信長と前田利家
前田利家も、織田信長に愛された武将の一人です。前田利家は美少年だったとのこと。信長は、5つ年下の利家を可愛がり、野遊びや川泳ぎにつれ回し、夜の相手もさせたといいます。
当時の男色の実際
ボーイズラブというと、「中性的な男同士が愛し合う」というイメージがありますが、戦国時代のボーイズラブは今とはずいぶん違うようです。引用します。『司馬遼太郎の考えたこと 5』です。筆者はもちろん司馬遼太郎。
この当時の男色はむしろ戦陣で勇敢な武将や侍の間で流行し、陰湿なものではなく、陽気で豪快な雰囲気があり、一度契れば生死を共にするというところまでのモラルが確立されていた。
なるほど。
相手方の利家はどう思っていたのか
信長はいいでしょうよ。上司ですからね。部下の利家はどう思っていたのでしょうか?利家は、上司の信長の言うことに逆らえなかっただけかもしれません。利家は180センチを越える大男で、行動は勇敢、その性格は勁烈で、とても今のボーイズラブと重なるものではありません。
この二人の関係は、信長の一方的なパワハラ、セクハラと考えるのが普通です。「鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス」ですからね。信長の誘いを断ったら殺されてもおかしくありません。さぞ、辛かったことでしょう。「できることなら誰にも知られたくない」利家はそう思っていたことでしょう。
ところが、そんな哀しい夜から数十年後のある夜、こんなことがありました。先の本『司馬遼太郎の考えたこと 5』から引用します。
信長の晩年、信長が諸将の前で利家をつかまえ、その白毛まじりの髭を引っぱり「この男が子どもの頃、わしは寝床で寵したものよ」と言った…。
我慢して、何度も信長に抱かれました。戦では死に物狂いで戦いました。そのかいあって、そこそこ偉くなりました。信長に抱かれたのは利家の黒歴史、みんなもそれを不憫に思ってそこにはあえて触れてこなかったのでしょう。なのに、なぜ、今頃そんなことをみんなの前で言うの?「穴があったら入りたい」これがこのときの利家の心境だったと思います。耐えろ、利家!
実はみんなから羨ましがられていた
空気を読まない信長が、みんなの前で暴露した過去の利家との夜の営み。利家は、さぞ恥ずかしがっていると思いきや…。
続けます。
「この男が子どもの頃、わしは寝床で寵したものよ」と言ったとき、諸将は声を上げ、利家の幸福を大いに羨んだという。利家は、晩年になってもそれが自慢であった。
うーん、わからない。信長との関係は、利家にとって黒歴史どころか自慢だったとのことです。