三島由紀夫
物音のたえた石畳には躑躅の低い硬質の影が映り、蜂の羽音だけが、眠っている午後の時の寝息のように聞こえている。『翼』
夏目漱石
私はその時また蝉の声を聞いた。その声はこの間聞いたのと違って、つくつく法師の声であった。私は夏郷里に帰って、煮え着くような蝉の声の中に凝と座っていると、変に悲しい心持になることがしばしばあった。私の哀愁はいつもこの虫の烈しい音と共に、心の底に沁み込むように感ぜられた。私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情緒を変えてきた。油蝉の声がつくつく法師の声に変わる如くに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻のうちに、そろそろ動いているように思われた。『こころ』夏目漱石
梨木香歩
借家を囲む梨畑の油蝉が疎ましい。主人の怠情を嘲笑うように夜明けとともに鳴き始め、陽が暮れてからも地熱の冷めぬうちは夜半まで鳴き続ける。『家守綺譚』
盛夏の頃であったので、なけなしの財布をはたいてスイカを買い、それをぶら下げて、ミンミンゼミが降るように鳴く緑陰の道を通り、挨拶に行った。『家守綺譚』
中庭で一番高い青桐の幹の葉陰には、幾匹もの蝉が羽を休めているのが見える。『家守綺譚』
吉田修一
真夏の早朝、すでに気温は上がっている。周囲の林の蝉が、また暑くなるだろう一日を、憂えるように鳴く。『さよなら渓谷』
浅田次郎
油蝉の声がむしろ静寂を際立たせる学び舎を見渡して、久子は立ち上がった。『終わらざる夏 上』
森鴎外
木立のところどころで、じいじいという声がする。蝉が声を試みるのである。白い雲が散ってしまって、日盛りになったら、山をゆする声になるのであろう。『杯』
一本一本の榛(はん)の木から、起きる蝉の声に、空気の全体が微かにふるえているようである。『カズイスチカ』
佐藤多佳子
頭がじんじんするほど蝉が鳴いている。『一瞬の風になれ 2』
小川洋子
中庭で一番高い青桐の幹の葉陰には、幾匹もの蝉が羽を休めているのが見える。『博士の愛した数式』
北村薫
その時ブンという音がして、開いていた窓から何かが、矢のような勢いで侵入してきた。それは襖や障子、額縁から蛍光灯にまで狂ったような線を描いてぶつかりながら飛び回った。輝く光の輪に当たった時には蛍光灯は揺れ、薄墨色の埃や古い蜘蛛の巣の糸が、私の上に怪しいほどゆっくりと舞い降りてきた。恐慌状態に陥った私は、タオルケットで身を覆いながら、座ったまま後ずさりして逃げた。襖のところまで来たとき、それはちょうど私の顔の横にドンとぶつかった。私は声を上げ、身を固くした。それは、もう一回飛んで柱にとまり、それから凄まじい声で鳴き出した。大きな油蝉だった。異様だった。『夜の蝉』
吉村昭
樹葉の緑は濃く、まばゆい陽光を浴びている。駅にとまるたびにおびただしい蝉の声がきこえた。『光る壁画』
角田光代
「赤いお花、きれいやなあ」薫の言葉で、少し気持ちが軽くなる。カナカナと蝉の声がする。声をひそめて鳴いているように聞こえる。『八日目の蝉』
薫の手を引いてバス停まで歩く。陽が照りつけている。蝉の声が降りしきるように響く。あとはなんにも音がしない。『八日目の蝉』角田光代
夏だ。唐突に思う。蝉。海。陽射し。陽に焼けた若い人たち。生い茂る木々。力に満ちた光景だった。ああ、夏だ、夏だ。いく場所もないし、未来なんかないに等しいのに、目に映る光景は、ともすると縮こまりいじけそうな私の気分を、ゆっくりとほぐし、解き放っていくように思えた。目に映る何もかもがきらきらと光り輝いている。私のわきを、親子連れが通り過ぎていく。ちいさな男の子は海水パンツをはき、浮き輪をおなかにかけている。水玉の帽子をかぶった母親はけだるそうに歩き、肩からカメラを掲げた父親が海の彼方を指さしている。『八日目の蝉』角田光代