読書生活 

本もときどき読みます

司馬遼太郎と戦国三英傑。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、この3人を司馬遼太郎がこう評しています。

秀吉が政治家であるとすれば、信長は前衛芸術家であり、家康は高級官僚である。官僚は、それ自らの力では、エラサが発揮できない。上級官吏なり、政治家なりの引き立て役を必要とする。家康の場合、引き立て役は、信長であった。『司馬遼太郎の考えたこと 1』

 司馬遼太郎作品の「余談だが」から、あまり知られていない信長、秀吉、家康ネタを拾ってみました。随時更新していきます。

織田信長

子どもの名づけ方が変わりすぎ 

信長は自分の子どもの名をこの男らしい傾斜をおびたものをつけた。長男信忠は「奇妙」といい、三男信孝は「三七」といい、九男の信貞にいたっては、「人」という名だった。『国盗り物語 第三巻』

水泳が好き

もともと体を動かして飛びまわることは大すきで、弓や馬術、水練にはとくに精を出してきた。水練はかくべつに好きで、まだ水に入るには寒い三月にはもう信長は連日水中にいたし、毎年九月までは泳ぎまわって暮らしてきた。『国盗り物語 第三巻』

秀吉を家来にしたきっかけ

顔が醜かったから。

 猿はついに決意し、(この貌を使おう)と思った。この珍奇な顔を押し出して信長の見参に入れればどうであろう。「罪を問われれば死ぬまでよ」と覚悟し、清州に出て信長の出入りをうかがっていると、しばしば鷹狩りに出かける様子である。 

 信長が通りかかるときにひらりと声をあげた。「-」信長は見おろし、弾けるように笑い出した。世の中でこれほど珍奇な顔をみたことがない。

 きっ、とその顔が笑ってみせた。その瞬間、馬が愕くぐらいの奇相になったが、それだけに物好きな信長は見惚れてしまった。信長の顔はだんだん好奇心ではち切れそうになり、「われは、何ぞ」と叫んでしまっていた。

 「なにとぞ」と泣くように叫んだ。

秀吉を草履取りに採用したきっかけ 

ドッキリで秀吉におしっこをかけたときのリアクションがよかったから。

 小便のくる方向を見定めると、目の前の腰板に男根が一つ出ている。「おのれ、なにやつじゃ」と猿はとびあがり、門の梯子をつかむや、腰を波うたせて掻きあがった。そこにはなんと織田上総介信長がいた。「ゆるせ」と、またぐらへ仕舞いつつ、眉にたてじわを寄せ、いつもの苦い顔で立っている。猿は平伏もせず、片膝を立てたまま、胸をかきむしるようにして、「殿様なりともゆるせませぬぞ」と、顔を真っ赤にしてどなった。「男のつらに尿をふりかけるなどは法外なことじゃ。お手討ちにあうとも、これはかんべんなりませぬぞ」この剣幕には信長も手が付けられず、ただむやみと顔をにがっぽくつくり、「汝ガ心ヲ見ントテ、シタル事也」と、「祖父物語」を筆うつしにすればそんなことを言った。「心を見るために、小便をおかけあぞばしたのでござりまするか」「おれはいつもその手だ」「しかし、掛けられた者の身にもなってくださりませ」「わかった」信長は和睦のしるしとして、「あすからおれの草履をとれ」といった。『国盗り物語 第三巻』  

いい男

「水もしたたるような美しい若殿でございます」よくよく信長の顔を見ると、この十五歳の若者は彼女がかつて見たことがないほどに高貴な目鼻だちを持っている。『国盗り物語 第三巻』 

乗馬好き

山には道がない。木の枝、草の根をつかんで全軍が上り下りした。が、信長は馬から降りない。子どもの頃から異常なほどの乗馬好きだったこの男は、蹄の置ける場所さえあれば楽々と馬を御することができた。『国盗り物語 第三巻』

片えくぼ

義昭は信長に常駐してくれるように頼んだが、信長はその特徴のある片えくぼをくぼませたのみで、返事さえしなかった。『新史 太閤記 上』

黒人の部下がいた

南蛮僧が献上した黒人を珍重がり、-まさか墨を塗っておりはせぬな。とわざわざ湯に入れて試し、まぎれもなく天然の皮膚だと知るといよいよ可愛がり、ついには弥助と名付けて太刀持ちにしたほど、この種の癖のある男である。『新史 太閤記 上』 

恐怖の一銭切

この男の治安と秩序に対する強烈な態度が行動にもあらわれていた。かれは、京都市中に充満している織田家の軍勢に対し、「一銭切」という刑罰を布告していた。市中で市民からたとえ一銭を盗んでも斬る、という類のない刑罰である。この場合、この刑罰令どおりを、信長みずから実行した。『国盗り物語 第四巻』

妹のお市は超美人

この近江の国を、この時期の信長は死に焦がれるほどに欲した。だからこそ、黒色無双と言われた妹のお市を、近江北部の大名浅井長政に嫁せしめ、姻戚の縁を結んだ。『新史 太閤記 上』 

お市は齢はすでに三十六ながら日本第一の美人と言われていたほどの婦人であり、信長が残した遺産の中で最も華麗なものであるだろう。(柴田勝家と再婚する時の描写です)『新史 太閤記 下』

豊臣秀吉

信長の草履取りになるまで、39回職業を変えた。 

幼いころから浮世を素足で歩き、このとしになるまで39回職業をかえたこの若者は、人の心というものがふしぎなほど読み取れた。『国盗り物語 第三巻』 

瓢箪が家紋なのは、秀吉が信長の後を瓢箪を持って追いかけていたから

紋も考えねばならない。猿は一も二もなく瓢箪にした。実際、大瓢箪を抱いて信長の後を追っかけていた姿を家中の者も城下の者も知っているから、それを紋にすれば誰も憎まず、愛嬌を感じてくれるだろう。『新史 太閤記 上』 

下戸

猿はさらに手足を舞わしてふざけた。そのくせ下戸の男は酔ってもいないのである。『新史 太閤記 上』

身長145cm

「五尺そこそこ」と、猿は平素身の丈のことを自称していたが、どうやら水増しがあるようである。又右衛門の息子の弥兵衛が満十四歳で四尺八寸である。その少年と並ぶと、猿はほどほどあった。となればこの男は一四五センチほどしかないのではないか。『新史 太閤記 上』

「大坂」の名付け親

後年、大坂に本拠を移したときもそうであった。大坂はそれまで「をさか」とよばれ、文字は決まっていなかった。それをこの男は「おほさか」とし、「大坂」と書くことを公にした。『新史 太閤記 上』

女好きなのでキリスト教徒にならなかった

「好意はもっている。しかしだめだ」

藤吉郎はなによりも女を好み、度を越えている。キリシタンでは一夫一婦を強制するという。十戒の第七条に「汝、姦淫するなかれ」という箇条があり、性欲の統御についてやかましい。藤吉郎がもし今入信するとすれば、姫路城や長浜城や安土屋敷などにかこっている想い者たちを召し放たねばならず、それをするくらいなら死んだ方がましだと思っている。『新史 太閤記 下』

風呂好き

入浴が別して好きな男であり、この改築した姫路城でも湯殿だけはとくに入念につくっておいた。『新史 太閤記 下』

日本史上、人肉を食べるほどの籠城戦は、秀吉が行った鳥取城戦だけ

四月目には、一部の間で餓死者の肉を食う者が出てきた。古来、人肉を食った例は、残されている資料ではこの鳥取城内の場合しかない。さすがに士分の間ではそれほどの事象は見られなかったが、足軽以下には名誉心がとぼしく、容赦なく屍肉を食い、死体をあさるために、夜間、柵のそばまで忍び寄って味方の戦死者の足をひきずろうとする者も出、それが羽柴方の哨兵に撃ち殺されるや、その男をほかの味方が食ってしまうというありさまになった。さらには生きている者さえ殺され、仲間に食われた。『新史 太閤記 下』

寧々は毛なし

御器とは椀のことである。寧々のそれはつるりとして御器のようであり、身に覚えのあることだけに驚いた。『新史 太閤記 上』

徳川家康

爪を噛む

家康は、例の癖で爪を噛み始めた。頬のとびでた泣きっ面で爪を噛む様は、どう見ても英雄とか豪傑とかいった種類の概念からほど遠かった。『覇王の家 上巻』

位の高い女性に興味なし

この正室についてのきわめて異常なかたちの死別を遂げてのちは、女といえば妾に限った。それも上位の家の娘に少しも関心を示さず、家来や領民のむすめを上げて妾にした。『覇王の家 上巻』

女好き

家康は閨のことを好み、かれの閨にはつねに婦人がいた。驚嘆すべきことであったが、かれは死ぬまで婦人を閨にはべらさずに寝ることはまずなかった。『覇王の家 上巻』

スポーツは健康にいいことを日本史上最初に知ったかもしれない人物

かれは遊女が梅毒をもっているということで生涯接しなかったし、なま水は飲まず、驚くべきことにスポーツは健康にいいということをおそらく日本史上で最初に知ったかもしれない人物で、彼の鷹狩りなどもその必要からのものであり、そのことは諸記録にも出ている。『覇王の家 上巻』

「浜松」の名付け親

浜松は家康がつけた地名で、それまでは引間と言い、引間城という小さな古城があった。『覇王の家 上巻』

大便をもらしたことがある

家康は一息入れたときだけに恐怖は以前にもまして大きく、夢中で駆けだした。おもわず、馬の首に顔を伏せながら鞍壺で糞を洩らしたというのは、このときであった。『覇王の家 上巻』

便秘

家康の腹の上にお勝の掌(て)がある。お勝の掌は、ゆっくりと家康の腸の方向にむかって腹をなでさすっている。便秘をふせぐための按腹(あんぷく)である。『関ケ原 上』

太りすぎて自分でふんどしを締められず、自分の性器に手が届かない

家康はちかごろいよいよ肥満しはじめて、自分でふんどしを締めることができない。自分の手で自分の前にふれることもできないのである。『関ケ原 上』 

若い頃は痩せていた 

家康はこの期間(三方原の戦いの頃です)、少年のころや晩年とは別人のように痩せており、目ばかりが大きく、頬骨が大きく出て、あごが長くとがっていた。『覇王の家 上巻』

城攻めは苦手

この物事に慎重すぎるほどの人物は、その性格とは反対に、生涯、野外決戦を得意とし、気長を要する城攻めを最大の苦手とした。『国盗り物語 3』

ぜいたくは嫌い

家康は秀吉に仕えている時は、自分の毒気をいささかも見せず、つねに慇懃であった。しかし、その時期、内々の場で家来たちにひそかに洩らす言葉は、秀吉のあの派手なやりかたに染まるな、ということであった。『覇王の家 上巻』 

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