読書生活 

本もときどき読みます

切ない気持ち

 正月に車で帰省した。年に1度、1泊2日の帰省。実家に駐車場はないが、この町には空き地が捨てるほどあるので何の問題もない(実際、本当に捨てられている)。いつもの場所に車を止めて、数分歩く。

 

 窓ガラスが割れ草が伸び放題の家がいくつもある。その家の前で猫がたむろっている。ナイトシーカー?に侵された映画「アイアムレジェンド」の世界のよう。まさに限界集落。「この町凄いね。おじいちゃんちは大丈夫かな」と息子が言うのも無理はない。人間がいないんだから。

 実家は同じ場所にあった。窓も割れていないし、垣根も手入れされている。父母はわたしたち3人を待っていた。笑顔の母とブスッとした父。嬉しいくせにそれを素直にあらわせないところは変わっていない。みかんやせんべい、ジュースやアイスなど、孫の気を引きそうなものをたくさん用意して待っていた。ハーゲンダッツがごろごろと置いてある。1泊しかしないことは伝えてある。食べ切れる量ではない。

 

 この家の絶対権力者だった父親は、この1年で老化が激しく進み、より小さく、よりシワだらけになっていた。もともと曲がっていた腰はさらに曲がり、歯は数本しか残っていない。

 

 この元「王様」は、自分より遥かに大きく成長した孫を見上げながら、ずっと口を動かしている。食べているのではない。しゃべっているのだ。

 無表情だから分かりにくいが、この老人は今とても機嫌がいいことを、18年間一緒に生活し仕えてきたわたしにはわかる。この人は機嫌がいいと多弁になるのだ。

 息子は、「うん」や「まあ」などと合いの手をうちながら老人の話を聞いている。なかなか空気を読めるようになってきた。ほとんど歯のないその老人の言うことなど、わたしですら理解できないのに、きみにわかるはずがない。

 

 母はまだ元気で、父親ほど老化していない。夕飯には孫の大好物である金目鯛の煮付けとそばを用意してくれた。大晦日恒例のメニューになっている。わたしも子どもだった頃ときどき食べた。金目鯛がとんでもなく高いことを、当時のわたしは知らなかった。息子ももちろん知らないだろう。

 

 母は昔から本が好きだった。緑内障の手術をした今でも、月に数冊文庫本を買っている。もちろん町に本屋はない。隣町の病院にバスで通うついでに、近所にある本屋に寄るらしい。わたしが帰省する大晦日の夜、1年間貯めたその文庫本をわたしの前に並べて感想を話すのが、母の楽しみになっているようだ。今年は『鹿の王』の話を熱く聞かされた。

 

 老人の夜は早い。2人ともがんばって起きていたが10時頃寝た。テレビは紅白、ウッチャンが欅坂46と踊っている。

 

 母の文庫本を本棚に戻そうとしたとき、少し奥に見覚えのない本を見つけた。文庫ではない。取り出すと『女、60歳からの人生大整理』とある。

 終活本のようだ。その中に、がっつり読まれているページがある。帯も外さない(売るためではない。そもそも売ると言う発想などこの人にはない。ブックオフを知っているかも怪しい)ほど本を大切にする母が、めずらしく折り目をつけている。

 そのページにこう書いてあった。

どんなに優秀な子どもでも、どんなに恵まれた家庭を築いている子どもでも、関心があるのは親よりも自分たちの家庭だ。親の役目は、40年前に終わっている。子どもは死んだと思って、残された自分の人生を大事に生きたい。

 わたしはまだ生きている。あなたの期待にまったく答えられないまま、もう40越えた。あなたの期待に応えられず、路線を外れた。今は職場の宴会部長だ。

 とても切ない。ただ切ない。今年は夏も帰ろうかな。

  

 

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