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飛脚と早籠と早馬、一番速いのはどれ?江戸の情報伝達手段について

 飛脚、早駕籠、早馬、この3つの情報伝達手段の速さを比べてみました。 

飛脚とは 

 手紙を書いてそれを飛脚に渡す。すると、各宿場町に待機している飛脚がその手紙を受け取り、また次の宿場町目指して走ります。飛脚システムとは、駅伝の襷ではなく手紙バージョンといったところです。

 こんな感じです。

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 これ、葛飾北斎の富嶽36景です。北斎ブルーが美しい!

 飛脚は、手紙をなくしたり、途中で襲われたりする危険があります。また、中身をすり替えられて嘘の情報が伝わってしまうこともありました。

早籠とは 

 そこで、超重要事項は手紙ではなく人間を運びました。運ばれる「人間」には、先方も顔を見知っていて交渉能力もある人間が選ばれました。その人間に手紙を持たせることもあれば、内容を覚えさせたりしました。手紙を持たせた、あるいは覚えさせた人間を籠に入れて、人間もろとも運びました。これが早籠です。

 こんな感じです。

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 早籠で優先されるのはスピードです。食事や睡眠休憩など一切ありません。先に早飛脚を何通も出し、早籠の手配を各宿場町にしてからスタートします。トイレや食事を済ませた担ぎ手が籠をもち、ガンガン走ります。4名が担ぎ、さらに1人が前棒を晒で引っぱり、もう1人が後棒を押す。計6名の「6人曳き」です。 

 乗り手は、胴に晒一反を固く巻いて腹を締め、天井から吊るした晒の紐を固く握って腰を宙に浮かし身体の揺れを防ぎます。嘔吐もそのままです。「着いたけど死んでいた」なんてこともある激しい旅なので、早籠には通常2人が使者として派遣されました。

 どういった場合に早籠は使われていたのでしょう。

 江戸時代、播州(兵庫県)赤穂の藩主浅野内匠頭が、江戸城において刀傷沙汰を起こしました。有名な「赤穂事件」です。内匠頭は切腹、家は断絶というなんともショッキングな知らせを一刻も早く江戸から地元に届けなければ。このときに早籠が使われました。たしかにこんな重要な情報は手紙では信じられないでしょう。だって断絶ですよ。全員無職ですから。

 引用します。司馬遼太郎の『峠』です。

 播州(兵庫県)赤穂の藩主浅野内匠頭長矩は江戸城において刃傷沙汰をおこし、切腹を命じられ、家は断絶になった。この変事を国もとの赤穂に急報すべく、原惣右衛門と大石瀬左衛門が江戸を早籠で発った。江戸から赤穂まで百五十五里である。ふつうならば半月以上はかかるところを、かれらは四日半で乗り切った。しかし着いたときは両人とも半死半生であった。『峠 上』

 半死半生だったとあります。忠臣蔵の劇では、江戸から早籠で来たこの2人が降り立って悲報を伝えるシーンがあります。髪も服もぐちゃぐちゃです。

早馬とは

 吉村昭が書いた『生麦事件』には、早馬を使うシーンがあります。早馬とは、文字通りひたすら馬で走るものです。昼夜を問わず自分で馬に乗り走ります。

 こんな感じです。

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 自分の体を馬に縛りつけています。む?これも富士山が見えますね。これは北斎ではなく広重のはずですが…。

 薩摩藩主の父、島津久光の行列に遭遇したイギリス人が薩摩藩士に斬られて殺されます。猛抗議するイギリス領事館に対し、薩摩藩は「行列には慇懃にするというのが日本の法、無礼をはたらかれたら斬るのも日本の法、悪いのは無礼をはたらいたイギリス人である、来るなら来い!」という態度をとります。久光とその一行は、そのまま薩摩に帰ってしまいます。

 この事件に対して、イギリス本国が幕府に対して公式に要求してきました。要求は「久光と下手人を処罰(殺せと言ってます)すること」「イギリス国と殺されたイギリス人の家族に対して賠償金を払うこと」の2点です。しかも「20日以内によい返答がなければ、薩摩藩を攻撃する」とあります。

 幕府はすぐに評議しますが、将軍家茂が京都に向かっているので返答ができません。すぐに家茂に伝えるために早馬が使われました。

 引用します。

 旅中の家茂に緊急事態の発生を支給伝える必要があり、使者として大目付兼外国奉行の竹本正雅(まさつね)が選ばれた。家茂一行を追うことになるが、37歳の竹本は頑強な体を持ち、神奈川奉行も兼任していてニール(イギリスの役人です)との折衝の場にも数多くのぞんでいて、使者として最も適していた。『生麦事件 上』

 早馬に乗る人間を選ぶにあたり、最も重要な条件の一つに「丈夫な体」があげられています。

 竹本が出発したとき、家茂は愛知県の豊橋にいました。で、この竹本が操る早馬がどれくらいの速さで走ったかと言いますと…。引用します。

 家茂の行列を追った竹本は、馬で東海道を急ぎ、2月25日夜おそく三河国吉田宿(豊橋)泊まりとなった家茂一行に追いついた。『生麦事件 下』

 これ、江戸を出発した日付があいまいなのです。そこで、帰りの記述を探しました。引用します。

 竹本は、翌朝、家茂に随行している老中の水野と板倉に会って事情を伝えた。水野らはイギリス側の要求のきびしさに当惑の色をみせ、協議の上、追って指示する、と答えた。

 竹本はただちに道を引返し、2月晦日の夕刻、江戸にもどった。『生麦事件 上』

 2月の25日の夜遅くに着き、翌朝(26日)伝え、すぐに豊橋を出て、晦日というと2月の最終日の28日、その夕刻に江戸に着いたということになります。2日半ですね。不眠不休で2日半!2日半も馬の上!凄い!

飛脚と早籠と早馬、どれが一番速いのか? 

 忠臣蔵で使われた早籠は、江戸~播州(兵庫)の155里を4日半で駆け抜けています。1里は4キロですから、約620キロを108時間かかったということは、時速6キロということになります。

 生麦事件での早馬は、江戸~吉田(豊橋)を2日半かかっています。東京から豊橋は約300キロですから、300キロを60時間です。ということは、時速5キロです。

 飛脚は、江戸から大坂を5日間で結んだとあります。約555キロを120時間ですから、時速4.6キロです。

 飛脚は時速4.6キロ、早籠は時速6キロ、早馬は時速5キロと出ました。この計算だと早籠の方が少し速いということになりますが、ほぼ同じです。どちらにしても地獄の旅ですね。

 赤穂事件は1701年、生麦事件は1862年に起きました。その間、160年経っているのに、情報伝達は早籠と早馬でほとんど進化なしです。江戸270年は平和な時代でしたが、やはり功罪あると言えるでしょう。 

 わたしの好きな北斎です。よろしければどうぞ。

www.yama-mikasa.com 

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