『汚れちまった悲しみに』
今から30年前、中学の同じクラスにイケすかない奴がいました。文学少女を気取っていて、いつも机の上に何らかの文庫本をカバーもかけずに置いていました。よく置いてあったのが、中原中也の詩集『汚れちまった悲しみに』です。
中原中也を昼休みに1人で読んでいた彼女は、ときどき顔をあげて周囲を見渡しふうっとため息をつくのが癖でした。わたしは彼女のことを「読書家を装っている『読書家風』の人間だ」と思っていました。
理由は、彼女の『汚れちまった悲しみに』というチョイスです。詩集って短くて読むの楽だし、気に入った詩の2つくらい覚えておけば読了アピールも簡単だし、そもそも帽子をちょこんとかぶった中原中也のルックスが気に入ったんじゃないの?そう思っていました。すさまじい偏見です。
『檸檬』
自称読書家のわたしは、彼女に対抗して机上に梶井基次郎の『檸檬』をよく置いていました(こんなことやってるわたしも当然「読書家風」です)。お前も短編集じゃないか!とツッコミたくなりますが。
『レモン』だったら多分目に止まらなかったでしょう。『檸檬』という一瞬読みを戸惑うこの微妙なタイトルを気に入りました。わたしは梶井基次郎で行こう、ずいぶん不純な動機で梶井基次郎のファンになりました。
読書家風同士、意識しあっていた2人でしたが、ほとんど会話はありませんでした。ただ、1回だけ彼女に話しかけられたことがあります。
こう言われました。
「梶井基次郎の写真、見たことある?」
と。
ありませんでした。でも、「ない」と素直に言えないのが読書家風のツライところです。わたしは、「梶井基次郎は30という若さで死んだ」というたった一つの知識をかなり引き延ばして、
「あんな若さで死ぬなんて、あり得ないよね」
と答えました。梶井基次郎についての巨万の知識が頭に入っているかのように、間を取ったり、視線を遠くにしたりと必死に演技しました。その一言に「色々知ってるぜ」という含みを持たせました。
彼女はにやりとした後、「そうだね」とだけ言って立ち去りました。にやりの部分に「わたしも色々知ってんのよ」という含みが込められていたことに、わたしも当然気づきました。
衝撃的だった梶井基次郎の写真
その日のうちに図書館に行って調べました。ネットが普及する前の時代です。能動的に行動しないと情報が手に入りません。基次郎はどこだ。いました。これです。
正直に書きます。わたしは猛烈に恥ずかしくなりました。嘘だろ。ゴリラ顔じゃないか。彼女の「にやり」の意味がわかりました。彼女は、わたしが梶井基次郎の写真を見たことがないだろう、とさっきの会話で理解したのでしょう。だから、にやりと笑った…。わたしは恥ずかしくて恥ずかしくて。
わたしは謝りたい。
あれから30年。わたしは謝りたい。「すかした顔で人気者になっている」と思っていた中原中也と、なにより梶井基次郎に謝りたい。顔がゴリラのようだと思ってしまったこと、そして、ゴリラ顔の作家を好きだったことを恥ずかしいと思ってしまった自分をぶっ飛ばしたい。
いつの間にか、梶井基次郎より1回り以上年を取ってることに気がつきました。読書家風気取りはあいかわらず抜けませんが、これからもしっかりと丁寧に読むつもりです。あと、中原中也も読んで見ようと思っています。