わたしの上司が、「退職まで10年以上こんな日が続くと思うと、うんざりする」とぼやいてました。
わたしより2つ年上で、家庭では3人の子育てに奮闘中とのことです。子どものために、19時過ぎには退社して、20時過ぎに帰宅。ご飯を作り、21時に夕飯を食べ、洗い物をして、洗濯物を干し、てっぺんくらいに寝て、朝4時に起き、弁当を作り、5時半には家を出て、7時過ぎに出社する。この生活の繰り返しにうんざりだ、と言います。
電車の中で考えるのだそう。何をしているのだろう、わたし‥。と。
鬱道の第1歩を踏み出している彼女に、鬱マスターのわたしは、
「仕事のことは、この職場を出たら忘れた方がいいですよ」と、言いました。
何か考えているのか、手を止めたものの、
「忘れられないの!」
そう言いながら、ダッシュで退社していく彼女の背中を見ながら、すでに彼女が鬱道の2歩目を歩み始めていることを知りました。合掌です。
幸せってなんでしょう。
以前、ブログに書きました。どこかの本の引用です。
本当の幸せは物質的な満足感に加えて、もっと深い感情的な意義が感じられたときである。そのようなとき、私は幸せを求めていたわけではなかったと思う。幸せはあくまで副産物だ。幸せとはひらりと逃げていく蝶のような、あるいは風に流されていく花の香りのようなほんの一瞬たまたま手に入るようなものである。
感情的な意義‥。手に汗握るような興奮や、安心できるような感覚がここ最近、あったでしょうか。抗うつ剤で、鉄と化したわたしのハートは、たいていのことに耐えられるようになっています。涙を流すこともないかわりに、笑うこともありません。
Death is a natural part of life
「死は生きることの一部だ」
ジュダイマスター、ヨーダのセリフです。
鬱マスターのわたしは、ヨーダのように考えられない。死は死で生ではない。
感情もほとんどなく、生きているか死んでいるかわからない生活なので、生も死も同じようなものなのですが、やはり、死は生ではなく「無」です。
だから、
死ぬまでは、わずかでも前へ進めるだけは進もう。恥ずかしくないように、できればこれまでより、いくらでもましな人間になりたい。そうして生を終えたい。そこへいたるまではいきいきと、美しく、明るく生きていたい。