読書生活 

本もときどき読みます

中島敦「悟浄出世」

 心ってガラスみたいなもんでストレスをかけ続けるとある日突然バリンと壊れるし、一度壊れると回復に時間がかかる上に耐久性が落ちる事もあるから無理したらダメだ。辛い時は必ず休む。心身の健康以上に大切なものなんて存在しない。お願いだから無理しないで。私は皆にずっと笑顔でいてほしい。

 

 本を読むよさは、いろいろあるが、私の場合、「ああ、ここにも私と同じことで悩んでいる人がいる」と思えるような登場人物や著者に会えることです。1人じゃない、そう思えることは、たとえ1人が好きな自分でも嬉しいこと。

 自分の小ささを自覚し、生きることの目的を探す旅は、若者の特権であるかのように思われている。ところが、年を重ねてもモラトリアム期真っ只中の人間もいる。私がそうだ。

 私のような人間は、その手の話題に頭を抱えている人間を見ると安心する。しかし、実際問題、私の周囲は年配はもちろん、若手もキラキラ眩しいのだ。先のような悩みを抱えてグロッキーになっているリアルな人間は、私の周りにいないのだ。現実世界では、にこにこ笑顔を振りまき、耐え忍んでいるのだろうか。Twitter上では罵詈雑言の嵐が常に吹き荒れているが、その反動かもしれない。

 小説にも、こじらせている人間を扱っているものがよくある。その手の小説をよく読むが、飛び抜けているのが、中島敦の「悟浄出世」。こじらせた人間(正確には妖怪。西遊記の沙悟浄、河童です)のインインメツメツとした様子の表現がすばらしい。妖怪なのに、自己とは何か?存在とは?の答えを求めて鬱状態で朦朧と旅をする。こんな感じ。

「何日も洞穴に閉じこもって食を摂らず、ギョロリと目ばかり光らせて物思いに沈んだ。不意に立ち上がってその辺を歩き回り、何かブツブツ独り言を言いまた座る。その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。」

 いろいろ怪しげな化け物のところに行って教えを乞いに行くも、皆最もらしいことを言うが悟浄にはピンとこない。そして、絶望する。

「我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ無限の中に投げ込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さにおののかずにいられるか。我々はみんな鎖に繋がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつ殺されていく。」

 この悟浄が、続編の「悟浄歎異」で鬱から脱する。これが本当に爽快。悟浄がこの鬱状態からどうやって脱したかは、悟浄歎異を読んでほしい。

 

 ただ、読んだからって鬱から脱せるわけじゃなし。 いいんだよ。そのままで。君の涙は無駄ではない。

「涙と共にパンを食べたことのない者には、人生の本当の味はわからない。ベッドの上で泣き明かしたことのない者には、人生の本当の安らぎはわからない。絶望することができない者は、生きるに値しない。」

高尚なドイツ人の台詞です。君のその苦しみは、まだ見ぬ誰かの役に立つ。