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付和雷同体質 『超国家主義の論理と心理』丸山眞男

 「誰と親しくすればよいのか」という嗅覚に優れた方、います。わたしも苦手ではありません。自分自身の判断より、その場を支配している空気を察しようとし、その空気を醸し出している人を探し、そういう人に判断を委ねようとします。わたしのこういう「付和雷同体質」は、日本人に共通するもので今始まったことではない、と丸山さんは言います。

 丸山さんは、昭和初期から太平洋戦争末までの日本をこう表現しています。

 ナチスの指導者はその起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意識をもっているに違いない。しかるに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそが戦争を起こしたという意識がどこにも誰にも見当たらない。何となく、何者かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入した。

 そして、日本には、「自分がこの戦争を指導した。その功罪のすべてについて私に責任がある」と言った人間がいない、とのことです。みんなが付和雷同体質だったと。

 戦後、東京裁判がありました。この裁判についてはいろいろとありますが、ここでは触れません。多くの政府高官が「私は反対だった」「疑問に思った」という証言を繰り返します。

 丸山さんは、その政府高官の中でも「小磯国昭」という元首相に注目しています。この小磯さんと検察官とのやりとりに、当時の日本政府高官の付和雷同体質がよく表れていると言います。

 ほかの政府高官と同様、小磯元首相にも、検察官が当時の国策についてどう考えていたのかを聞きました。小磯さんはことごとく「私個人としては反対でありました」と答えます。元首相ですよ。ことごとく「個人としては反対」ってどういうことでしょう。

 苛立った検察官がこう質問しました。

 あなたは昭和六年の三月事件に反対し、また、満州事変の勃発を阻止しようとし、またさらに日本の中国進出にも反対し、さらに三国同盟にも反対し、また米国に対する戦争にも反対した。けれどもすべてにおいて、あなたの努力はみごとに粉砕されたということを述べていますが、もしもあなたが本当にこれらに反対していたならば、なぜあなたは次から次へと政府部内において重要な地位を占めることを受け入れ、首相にまでなってしまったのか。

 こう聞かれ、小磯さんは当然のようにこう答えたと言います。

 われわれ日本人の生き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策がいやしくも決定した以上、われわれはその国策に従って努力するというのが従来の慣習であり、尊重せらるる生き方であります。

 そんな馬鹿なことがありますか?と不愉快になりましたが、関ヶ原小早川秀秋もそうだったなあと思いました。

 付和雷同、様子見、空気を読む。丸山さん、その姿勢は今の日本人にも受け継がれています。