読書生活 

本もときどき読みます

ドイツ人と日本人の違い

 朝日新聞9月20日朝刊の記事です。

www.asahi.com

 「ドイツ人はなぜ安定を志向するのか」という少しお堅いテーマについて、3人の識者が語っています。その中の一人、ドイツ人のサッシャさんという方の意見が興味深い。

「なぜ」が大好きなドイツ人と、つべこべ言わずにやる日本人

 サッシャさんによると、「ドイツと日本人はどちらも勤勉でルールは守るが、似ているところが多いだけに違うところがはっきり見える」と言います。両国ともまじめ、というイメージはありますね。

 違うところはどこか。サッシャさんによると、ドイツには鶴の一声で決まるようなことがない、とのことです。

 ドイツも会議が多くて長い。ただ、鶴の一声で決まるようなことはありません。究極に空気を読まない人たちで、納得できなければ理由を求めて延々と議論します。ただ、決まれば従う。だから、できあがったモノやシステムには安定性があります。

 僕は小学3年までドイツにいて、あらゆる場面でなぜを問われる環境になれました。たとえば遅刻。謝る謝らないかより、理由を説明できない方が怒られます。「前夜に親戚の集まりがあって遅くまで起きていたから」と言えば、じゃあ寝る時間をあらかじめ決めておこうとか、次への解決の糸口が見つかります。理由を求めて、理解して、だからどうすると言えないとダメ。日本人からすると、理屈っぽいんですが、なぜをあいまいにすると責任がはっきりしないし、進歩しません。

 後半の下線部、とてもおもしろい。続けます。

 こっちにきてとまどったのは、「つべこべ言わずにやれ」と言われること。ドイツでは子どもからも「なぜ」と聞くのが当たり前でした。

だそうです。 

とことん「なぜ」を追求するドイツ人 

 以前、オイゲン・ヘリゲルというドイツ人が書いた『日本の弓術』という本を読みました。今から約80年前に書かれた本です。無術の術に至る道を歩む過程が、綿密かつ具体的に書かれています。無術の術に至る道。これは、オイゲン・ヘリゲルが師と仰いだ弓聖「阿波研造」の言葉です。なんと美しい響き。無術の術に至る道。 

yama-mikasa.hatenablog.com

 この中に、阿波氏とオイゲンさんの「無心になる」ということについてのやりとりがあります。そのやりとりには、サッシャさんの言う「納得できなければ理由を求めて延々と議論する。ただ、決まれば従う」というドイツ人観がよくあらわれています。引用します。 

阿波氏 

「あなたは意志をもって右手を開く。つまりその際あなたは意識的である。あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを、学ばなければならない」

オイゲンさん

「意識的に矢を放たないと矢は放たれない」

阿波氏

「待たなければならないと言ったのは、誤解を招く言い方であった。本当を言えば、あなたは全然なにごとをも、待っても考えても感じても欲してもいけないのである。術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起これば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」

オイゲンさん

「無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか?」

阿波氏

「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきだろうか。仏陀が射るのだと言おうか。この場合、どんな知恵や口真似も、あなたにとって何の役に立とう。それよりむしろ精神を集中して、自分をまず外から内へ向け、その内をも次第に視野から失うことをお習いなさい。あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずはない」

オイゲンさん

「少なくとも無心になるつもりにならなければならないでしょう。さもなければ無心ということがどうして起こるのか、私にはわからないのですから」

ここで、途方にくれる弓聖。

「的を狙わずに射中てることができるということを、あなたは承伏しようとしない。それならば、あなたを助けて先へ進ませる最後の手段がある。それはあまり使いたくない手ではあるが」

そう言って、オイゲンを夜自宅に招きます。そして、暗闇の中での超絶神技(技という言葉を使うのは、ここでは本当は好ましくない)をオイゲンに見せます。オイゲンを納得させるためにです。そしてこう言います。

「こんな暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。それでもあなたは、狙わずには中てられぬと言い張られるか」

オイゲンは、やっと納得します。

「それ以来、私は疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりと諦めた。その果てがどうなるかなどとは頭を悩まさず、まじめに稽古を続けた。夢遊病者のように確実に的を射中てるほど無心になるまで、生きているうちに行けるかどうかということさえ、もう気にかけなかった。それはもはや私の手中にあるのではないことを知ったのである」 

「納得できなければ聞く、納得すれば従う」まさにこのオイゲンの通りです。この本、本当に素晴らしい。おすすめです。

きょろきょろする日本人 

 理屈ではなく「無術の術へ至る道」を進む阿波氏のような人が日本人の典型だと言いたいのですが、そうでもないでしょう。少なくともわたしは違います。阿波氏は自分の内をひたすら追求し、その結果「無」になります。それに対して、わたしは空気を読み周囲にとけ込むことで無の存在になろうとしています。「つべこべ言わずにやれ」と言われて、わたしが納得してなくてもやるのは、先の阿波氏の言葉を借りると「経験してからでなければ理解のできないこと」があることを知っていて、それを理解するためにやるわけではなく、ただ「理由を聞くのが面倒」なだけだからです。

 内田樹さんは『日本辺境論』で、日本人をこう言ってます。

きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める態度こそは、まさしく日本人のふるまいの基本パターンです。それは国家レベルでもそうですし、個人についても変わりません。「オレはきょろきょろなんかしてない。自分のスタイルを貫いている」と抗議する方がいるかもしれませんが、ほんとうに「自分のスタイルを貫いている人」はきょろきょろあたりを見回して、「まわりの人はオレが『自分のスタイルを貫いている』ことをちゃんと見てくれているかな」と自己点検するようなことはしません。

 さらにこう言います。

「何が正しいのか」を論理的に判断することよりも、「誰と親しくすればいいのか」を見極めることを考える。自分自身が正しい判断を下すことよりも、「正しい判断を下すはずの人」を探り当て、その「身近」にあることの方を優先する。

 自分の中から考えない、ああ、そうかもしれない。わたしのブログに引用が多いのも、典型的な日本人発想だと内田さんに言われそうです。

『読書について』ショーペンハウアー 

 『読書について』という名著があります。今から200年近く前にショーペンハウアーという方が書かれた本です。その中でショーペンハウアーはこう書いています。 

 議論の余地ある問題に権威ある説を引用して、躍起になって決着をつけようとする人々は、自分の理解力や洞察の代わりに、他人のものを動員できるとなると、心底喜ぶ。彼らにはそもそも理解力や洞察が欠けている。

 考えが今頭の中にあるということは、恋人が目の前にいるようなものだ。私たちはこの思索を忘れることなど決してない。だが「去る者は日々に疎し」だ。どんなに素晴らしい考えも書きとめておかないと忘れてしまい、取り返しがつかなくなる危険がある。

読書のすすめを説きながら、「とにかく考えろ」と執拗に書いてあります。今、気づきました。この方、ドイツ人です。納得。 

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