三文字切腹で華麗に散った武市半平太
息子が小学校のときに買った『歴史人物できごと新事典』という本を読みました。とてもおもしろく、興味をそそる記事が満載です。その中のひとつの記事に目が止まりました。
「スゴイ根性の話」三文字切腹!!
武市端山は、肝っ玉のすわったサムライだった自らの身体を3回斬るという三文字切腹で、最期を遂げたんだ。ほかのどんな武将でもできなかったことだよ。
『竜馬がゆく』に描かれている武市半平太の三文字切腹
武市端山(ずいざん)。通称は半平太です。土佐出身で土佐勤王党を結成します。竜馬とも交友がある幕末の雄の一人です。はて、三文字切腹?知りませんでした。『竜馬がゆく』を久しぶりに読み、武市半平太の最期のシーンを探しました。見つけました。
いろいろあって、武市半平太は捕らえられ切腹を命じられます。
半平太はどう切腹するか考えます。当時、切腹がどのようにとらえられていたのか、司馬さんの文章を少しだけ引用します。
武士の切腹が「美」にまで高まり、かつその例がもっとも多かったのは戦国時代と幕末であって、徳川中期の泰平の世にはうとんぜられた。扇腹というのがあって、短刀がわりに扇を腹にあてるだけで、背後から介錯人が首を落としてくれた。元禄の赤穂浪士でさえ、切腹の前夜、その仕方を知らず、ひとに教えを乞う者があったという。
が、戦国、幕末といったように時代がたぎり、緊張してくると、男というのは自分が男であることの美を表わそうとする。この時代数えきれないほどの武士が切腹したが、ことごとく見事であった。
「扇腹」これならわたしにもできます。介錯人が一撃で決めてくれることを祈って、扇を腹にあてます。
もちろん半平太は扇腹などしません。普通の切腹じゃない、特別な、もっと強烈な切腹法はないかと考えます。切腹にはいろいろあって、基本の一文字に切る方法や十文字に切る方法などがありますが、半平太は人があまりやらない三文字切腹をやると決めました。
ところが、気合を入れて三文字切腹を行っても、そのような切腹作法を役人が知らなかったら、「こいつ何やってんだ」と笑われるだけです。それだけはさけたいと思った半平太は、人を呼び
「わしは三文字切腹をやる。そんな古法があるのだということを心得て、後日、人がそしる時の証人になってくれ」
と言います。
問題は半平太の体力です。長い獄中生活で衰弱しきっています。しかし、やる、やると決めたらやるのです。
とうとう切腹当日。半平太は、
「まだ竜馬がいる。おれとは生き方が違ったが、あとはあの男がよろしきようにやってくれるじゃろ。薩摩には西郷がいる。長州には高杉、桂がいる。土佐藩固陋にして動かざれども、天下はまわりゆく。いずれは徳川が倒れ、あたらしい国ができる。魂魄になってもそのときを楽しみに待とう」
と言うと、後ろに備える介錯人二人に、
「よいか。わしがよしというまでやるな」
と告げ、気が充実するのを待ちます。
そして、三文字切腹です。まさに壮絶。長いですがすべて引用します。これくらい勘弁してください。半平太の最期です。
短刀をとり、腹をくつろげ、しばらく気魄の充実してくるのを待ったが、やがて左腹の下部にずばりと突き立てた。
声は立てない。
きりきりとそれを右へ一文字に切りまわし、いったん刃をひきぬくや、こんどは右腹に突きたて、
やっ
やっ
やっ
と三呼叫び、みごと三文字に掻き切って突つぶせた。
血しぶきがすさまじく飛び、検使の役人の袴に、びしっとかかったほどである。
まだ息があった。
介錯人はうなずきあい、左右から心臓部へ突き刺した。武市の姿勢がすでに伏せているので、首を刎ねられなかったのである。
37歳。武市半平太、三文字切腹の描写です。
残された武市半平太の妻と子
妻の富子は気丈な方でした。武市と間に子どもはいませんでしたが、養子をもらい半太と名づけて育て、武市の姪の千賀とめあわせました。そして、大正6年、88歳でお亡くなりになりました。養子の半太は医師となり、昭和18年に死亡、その妻千賀は昭和35年に亡くなりました。
そして、その長男の半一さんは、東京で医師をされていたと『竜馬がゆく』にはあります。
もう一度、冒頭の文章に戻ります。
「スゴイ根性の話」三文字切腹!!
武市端山は、肝っ玉のすわったサムライだった自らの身体を3回斬るという三文字切腹で、最期を遂げたんだ。ほかのどんな武将でもできなかったことだよ。
武市の最期を全く覚えていなかったわたしが言うのもなんですが、すいぶんふわっとした書き方ですね。「どんな武将でもできなかったことだよ」って、ねえ。