はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
中3のとき、わたしの祖父がガンで死んだ。生まれてはじめて葬式に出た。親族みんなで集まって、学校を堂々と休み、久しぶりに会った従妹と遊ぶ、わたしにとって祖父の葬式はおもしろいイベントのひとつだった。自分もいつか歳をとって死ぬということに、全くリアリティーを感じていなかったからだと思う。若いときは「人生はかぎりがある」ということを頭ではわかっていても実感はない。
その後何回も葬式に出た。おもしろいイベントと感じることはなくなったが、死を実感することもなかった。自分には直接関係ない他人の不幸をおおっぴらにのぞける、という後ろめたい楽しさがあった。30代後半までは、わたしに残された時間は「無限」とは言えないまでも十分すぎるくらいあるように感じていた。
自分の未来の人生に十分な時間があるということは、自分の可能性もまた開かれているということでもある。もしかしたら、宝くじに当たって大金持ちになるかもしれないとか、とんでもない大発見をして有名になるかもしれないとか、くだらない夢のようなことを考えていた。
そんなくだらない夢想をすることで、日頃の雑務やストレスをまぎらわしていた。未来のために今を犠牲にできるのは、未来があると思えればこそだ。
このような夢想は、未来のために日々努力している人間の特権のように思われている。しかし、何の努力もしていないわたしも、努力している人間と同様に未来の幸運を信じて現実の辛さや退屈さをまぎらしていた。
ところが、人はいつか自分の残りの人生がさして長くないことを知ることになる。わたしは、ある日突然倒れた。気がついたら病院のベッドの上というあれだ。深夜、水を飲もうとしてふらっと倒れ、頭を何かの角にうちそこから出血したらしい。ストレスでまいっていた頃だった。
しばらく病院で過ごした。人生は有限だ、と身に染みて知ったのはこのときが最初だった。どうにも頭がふらふらする。起きているときはもちろん、寝ているときもふらふらする。これ以降、体の調子がついに元に戻らなくなった。
もう少し体の調子がよくなったら、もう少しお金ができたら、もう少し暇になったら、多くの人はそう思って、自分にとって大事なことはやらないで、時間だけはどんどん過ぎてゆく。もしかしたら、体の調子はこれ以上よくならず、お金は決して増えず、暇にもならず、気付いたときは余命3カ月などと言われるかもしれない。
今一番大事だと思うことを、一番したいことをする、そう決めた。そして、わたしは先日、大切な人を誘って「戦艦三笠」に乗った。