臨終のとき
わたしは小さい頃、「親の死に目に会えないような人間になるんじゃないぞ」とべろんべろんに酔った父親によく言われました。あれから30年、浴びるように酒を飲んでいた父親は、未だに元気いっぱいです。
この30年の間に、酔っぱらった父親を何度も家まで運んでくれた近所のおじさんや、夜逃げしたわたしと母親を1ヵ月もかくまってくれたおば夫妻など、多くの「よい」人がお亡くなりになりました。あのアル中の老人が80近くの今も元気で、あの優しい人たちが先に死ぬなんて、神も仏もいたもんじゃないですね。
正直、ポックリ逝ってほしいと思っています。長い介護生活などまっぴら。彼も「お前たちには迷惑かけない」とぬかしてますが、既に通常の何倍も迷惑をかけられています。本当にその気なら、きっちりポックリ逝ってもらいたい。
心配なのは、発展した医学が彼のポックリを妨げるのではないか、ということです。時代劇や昭和のドラマでは、瀕死の人を抱いて、「何か言い残すことはない?」などと聞く場面がよく出てきます。「妻のことをよろしく頼む」とか「遺産は佐清、佐武、佐智のいずれかと結婚した者に与える」とか言った後、首をガクッとうなだれて死ぬ場面が必ずそれに続きます。死ぬ時にガクッとなるのは芝居の約束であって、そうしないと話が続かないからそうしているに違いないけれど、どちらにしても、昔は瀕死の人はすぐ死んだと思います。ところが、今はそうじゃないらしい。
わたしの世代でも、親の死を体験した人間が増えてきました。彼らに話を聞くと、どうやらそんな簡単なものではないのが現状の臨終現場のようです(わたしの周囲数人の話に過ぎず、一般論かどうかはもちろんわからない)。
彼らの親御さんは瀕死の状態からが長かったと言います。死ぬかわりに意識不明となり、生きているのか死んでいるのかさっぱりわからない状態が何週間も続いたとのことです。
友人の一人は、「父が危篤だ、さあ集まれ」というラインを見て、すぐに病院に駆け付けたらしいです。で、そこそこの親族が集まったのですが、そこからが長かったとのこと。1日経ち、2日経つ。そのうち、周囲の何人かが仕事の都合で帰ったりします。そりゃあそうです。何日も死ぬのを待っているわけにはいきません。仕事にも学校にもさしつかえます。上手に言ってお帰りになってもらった人は数知れず。しかし長男の自分が変えるわけにも行きませんから、いっそのこと早く逝ってくれたらいいのだが、と本音を奥さんにはこぼしたと言います。いくら身内とはいえ、いつ死ぬか分からない意識不明の病人のそばに、1週間も2週間も付き添っているわけにはいきません。結局彼は、母親に「もう一度何かあったら連絡してくれ」と頼み、日常に戻りました。彼の父親はその1カ月後に意識を戻さないまま逝ったとのことです。
「ご親戚の方に集まってもらってください」と声をかけるのは医者の大事な仕事の一つですが、延命治療がこれほど進歩すると、死ぬ時期を判断するのはとても難しいようです。多くは集中治療室で沢山の医療機器に囲まれて意識不明になるまで生かされているわけだから、臨終の場がドラマチックになることもそうありません。一人一人と握手をし、言葉を交わし、ついでに白い巨塔の財前のように愛人とも二人っきりにしてもらい、最後は大切な友人に手をにぎってもらいながらガクッと逝く、などという美しく都合のよい臨終の場はもう珍しいようです。
友人の父親は、とてもいい人でした。小学生の時、一緒に遊んでもらったし、祭でりんご飴を買ってもらいました。いい人でした。
もう、老父のことは忘れます。自分が当事者なら、ぽっくりと逝きたいです。意識不明の状態を何週間、何カ月も続けて、生命保険は死ななきゃ下りないとか影口を叩かれる前にぽっくりと逝きたい。家族に迷惑をかけなければ、死に際に別れを惜しんでくれるかもしれません。
息子には「親の死に目に会えないような人間になるんじゃない」なんて言うつもりはさらさらありません。自分の死に目に会ってもらえるような生き方と死に方をしろ、と自分に言うべきでしょう。
とにかく父にはポックリ逝ってほしい。ああ、ヘドロのような毒を吐いてしまいました。