読書生活 

本もときどき読みます

ヒロシマに日帰りで行ってきた

 妻が体調不良で元気がありません。精神的なもので、自分を否定しよく涙を流します。妻はどんな時でもわたしの話をよく聞いてくれました。わたしは彼女に何度助けてもらったかわかりません。彼女を元気づけるためにはどうしたらいいだろう、と考えていました。

 先週の土曜日、朝日新聞を見ていたら、アウシュビッツでガイドをしている日本人の記事を読みました。また、書評欄に「ヒロシマ」が。わたしは何回か行ったことがありますが、彼女はまだありません。行きたい、とよく言ってました。普通に誘ってももったいないと断られそうなので、その日の午後、駅で広島までの往復新幹線チケットを2人分こっそり買い、日曜日の朝、無理やり連れ出しました。訝しむ妻に購入済みのチケットを渡したら、観念した様子でおとなしく新幹線に乗ってくれました。

 4時間の旅を終え、広島電鉄原爆ドーム前駅に着いたのは、お昼を少し過ぎた頃でした。いい天気で、夏の暑さも和らぎ、秋の音が微かに聞こえる、そんな空気でした。暑さに弱い妻でしたから、助かりました。

 妻は、初めて原爆ドームを目の前にして衝撃を受けていたようです。膝の力が入らず、よろよろと、わたしが支えなければ立っていられないような。原爆ドーム前で放心状態の彼女の手を取り、歩きました。原爆の子の像の前で手を合わせ、鐘を鳴らしました。

 その後、平和記念公園に入りました。核兵器が廃絶されるまで燃え続ける平和の灯を左に見て、慰霊碑前で黙祷しました。彼女の黙祷は長く、わたしが黙祷を終えた後も、彼女はしばらく目を閉じたままでした。

 リニューアルされた平和記念資料館には、わたしも初めての来訪です。8月に放送された(昨年の再放送)NHKスペシャルでは、リニューアルした資料館が特集されていました。20万人が死んだとか、原爆は酷い、などといった通りいっぺんの感想ではなく、きのこ雲の下にいたひとりひとりの人生を想像してほしい、遺品を提供した遺族の方が泣きながら語っていました。

 あまりにも多くの方の人生がわたしの胸に入り込み、息がつまり、意識しなければ呼吸もできないほどでした。

 多くの展示品がありましたが、わたしの胸に残ったものは、一つの定期入れです。

 倒壊した建物に片足がはさまり動けなくなった中学生を発見し、一人で必死で救出しようとしましたが、いくらがんばっても足は抜けません。迫ってくる炎。その中学生に「助けられない、許してくれ。」というと、彼は恨むどころか「ありがとうございました。これを家のものに渡してください。」と、定期入れを手渡したのだそう。中学生の父は、被爆翌日から毎日捜し歩いたけど、どうしても発見することができず、被爆から20日後頃、届けられたこの定期入れによって、息子の死を確認します。

 定期入れには20.7.10と20.10.09の日付けが刻印されていました。3か月定期です。まさか、8月6日に全てが終わるとは思ってもいなかったことでしょう。生きながら焼かれる恐怖の中で、「ありがとうございました。これを家のものに〜」なんて言えますか?ましてや、中学生が。

 彼女は資料館の中で、わたしの手をずっと握っていました。1時間半後、途中のシートで窓越しに原爆ドームを見ながら休憩しました。

 資料館の中にいる間、彼女はわたしが消えないようにわたしの手を握っていた、と言いました。わたしの手が離れそうになると、悲しくてその都度涙が出そうになったので、手をずっと握っていた、と言いました。

 原爆ドームと資料館は、見る人によって答えを変えて教えてくれる、ヒントをくれる、そういう場所だと思います。
 前々回、休職中だったわたしは、人間とは何か、といった問いや、怒り、絶望、悲しみ…そういうものに押しつぶされそうになっていました。その時は、ただ、生きろ!と言われたように思いました。

 わたしが今回もらったメッセージは、周囲の人を大切にしろ、1日1日を誠実に生きろ、でした。妻を支えてしっかり生きろ、ということだと受け取りました。

 資料館には、傷ついて動けなくなった重傷者を必死で看病する家族の写真がたくさんありました。

 君がもし傷付いた重傷者だったら、僕は君の体に刺さったガラス片やうじを寝ずに取る。毎日包帯を取り替えて、君にスプーンで食事を運ぶよ。たとえ、死んでも続けるよ。そう言いました。

 すると、彼女は、「それはわたしのセリフです」と嬉しそうにわたしに言いました。オウム返しが彼女の癖なんです笑。

 17時に広島を出ました。滞在時間5時間、往復8時間の日帰り弾丸広島旅行でした。死ぬ時に出てくる走馬灯の1ページとなりました。妻が早くよくなりますように。

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