読書生活 

本もときどき読みます

おいはぎ考 おいはぎって、追って剥ぐの?

菊池寛の「恩讐の彼方に」を読みながら考えました。

 

この「恩讐の彼方に」では、主人公が奉公先の女とよい仲になり、その夫を殺して2人で逃げる。木曽路の山の中で茶屋を開き、金持ってそうな客を殺して生計をたてる。まあ、話はここから盛り上がるのですが、知りたい方はWikipediaで調べてください。物語はここから急転直下して、道徳の教科書にも出るような感動的な話に仕上がっています。※実際、小学生の教科書に出ていました。

 

この主人公がやってる山の中で人を殺して身ぐるみ剥ぐのが「おいはぎ」。追いかけて、はぐ。山道で旅人を追いかけて、着物や財布をはぐ。

 

だけど、時代劇などを見るに、追いはぎは、たいがい藪の中から山道を歩く旅人の前面に出てきます。旅人の行く手に立ちはだかって、「命が惜しくば身ぐるみ置いていきな。」なんて言います。

 

でもね、これは違うと思うのです。追いはぎというのは本来、旅人の背後から襲いかかって着物をはぐものだからこそ、「追いはぎ」という名称になったのだと考えられます。追いはぎのくせに、旅人と対峙する位置取りをしては、「追いかけて、着物をはぐ」ことになりません。それに着物は、背面から帯を解き引っぱがした方が、明らかに脱がしやすそうでしょう。

 

ということは、「藪の中にひそんで旅人をやり過ごしてから道に飛び出し、背後から襲いかかる」のが「追いはぎ」的に正しい作法と言えるのではないでしょうか。

 

でも、まだ疑問が浮かびます。

人間心理として、目の前の道を歩く獲物(旅人)を、藪の中からじっとうかがい、機を見て背後から襲いかかるなどということができるでしょうか。旅人が目の前を通り過ぎ終えるまでじっと待つなんて、精神的によくありません。飛び出すタイミングだって難しいでしょう。

 

やっぱり、時代劇で描写されるように、「まずは旅人の進行方向をふさいでおこう」と考え、「旅人の行く手に立ちはだかる」方が人間として自然な行動のように思えます。でも、それでは、「追いかけて、着物をはぐ」ことになりません。

 

そこで視点を変えて、行く手をふさがれた旅人の心理を想像してみます。動転した客は当然、「キャー!」となり、回れ右をして、もと来た道を一目散に逃げるはずです。10人に2人くらいは強行突破を試みるものもいるでしょうが、大半は背中を見せて逃げ出すはずです。そんな旅人を追いかけて、着物をはぐ。だから追いはぎ。追いはぎとは、回れ右をして一目散に逃げ出す旅人の協力によってようやく「追いはぎ」になることができるのです。あースッキリした。

 と、いう視点でもう一度「恩讐の彼方に」の追いはぎ部分を読み返してみます。

 

2人(旅人)が茂みに近づくと、市九郎(主人公)は不意に街道の真ん中に突っ立った。「有金と衣類を出していけ!」

相手の男は、道中差を抜くと、その男は、必死になって飛びかかって来た。

 

なんと!強行突破をはかる残りの2割でした。では連れの女はどうなったのでしょう。回れ右?この強行突破をはかる男を殺した後の女の行動に注目して、引用続き。

 

連れの女は気を失ったように道のそばにうずくまりながら、ブルブルと震えていた。彼は女に近づいた。女は、両手を合わして、市九郎に命を乞うた。市九郎は、この女を斬って、女の衣装を台無しにしてはつまらないと思った。そう思うと、彼は腰に下げていた手ぬぐいを外して女の首を括った。

 

なんということでしょう。追って剥いでない😭。

 

どこかの本屋に菊池寛の雑学があったんですよね。

「極貧の子ども時代、運動靴がなくて素足に靴の絵を描いて走り回っていた」

とか、

「いい年して止まらぬ浮気を妻になじられ、60になったらマジメになる、と答えたが、59で死んだ」

とか。

 お茶目で好きです。菊池寛。