本音度が過ぎている気がしてなりません。ものには限度というものがあります。なんでも思ったことをストレートに言うのがよい、という風潮がわたしには少しきつく感じるのです。
たとえば、今みなさんが読んでくださっているこの文章を読み「こいつの途方もなく浅い読みに興味がある」と読者登録してくださる方がいるかもしれません。
しかし、そういう方であっても、わたしが「読書歴を披露して知識人と思われたい」とか「アフィリエイトでお金を稼ぎたい」というようなタイプの本音をたらたらと書き連ねていったら、すぐに登録を解除なさることでしょう。
もちろん、わたしの本音はそうではありませんし、あとで書きますが、実はわたしの本音というものが自分自身でよくわかっていません。
正直言いますと、最初はお金を稼ぎたいという欲がなかったというと嘘になります。しかし、現実(アフィリエイトで稼ぐということの大変さや、万が一うまくいって収入を得ることができても、本業を失う可能性が高いということなど)を知った今、そんなことはまったく考えていません(涙)。今は、アウトプットのための読書という新しい読み方を楽しんでいます。もうしばらくしたら、pro?にして広告を一切消すつもりです。
話がそれました。人の本音なんて、他人を不愉快にするものが多いという話をしたかったのです。
次です、人の本音なんて、案外つまらないという話です。
息子が小学生だった頃、学校で行われた七夕集会を見に行きました。何かの劇をしていたらしいのですが、まったく記憶にありません。覚えているのは、一年生の子どもたちが書いた七夕のねがいごとです。覚えたてのたどたどしいひらがなで、
おかねがほしい
あいすがたべたい
かあどをたくさんほしい
と書いてありました。
がっかりしました。なんといいますか…そんな本音は聞かなくてもわかっています。嘘でも偽善でもなんでもいいから、家族や友達や先生など、お金では手に入らないものについてもっともらしく書いてくれた方が、金太郎飴のようにひらべったくて画一的な「本音」よりずっとおもしろく、人間的に聞こえます。
わたし自身今でもそうなのですが、そうやって何かもっともらしいことを言おうと苦心しているうちに、それが次第に自分の本音に密着してきて、自分自身にとっても他人の目から見ても、本音と建前の区別がつかなくなってきます。だから、さきほどは「自分自身の本音がよくわからない」と書いたのです。
本音を語ることが人間的だ、というような安易な発想は、本能に身をゆだねる画一的な人間しか作らない気がします。必死になって不自然な仮面をかぶり続けるからこそ、オリジナルの自分、個性が生まれると思うのです。
三木清は、
嫉妬心をなくすためには自信をもてとよく言われる。だが、自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作らない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的ではない。
きっと、「この物を作ることが自己を作る」というのが「必死になって不自然な仮面をかぶること」と通じるものがあるのだと思います。