映画『関ヶ原』公開直前
もうすぐ映画『関ヶ原』が公開されます。原作は司馬遼太郎の『関ヶ原』です。
石田三成は、江戸時代300年の間、幕府に憎まれ続けました。三成を奸人とし続けることで、豊臣家の権力を奪った徳川家の立場を正当化しようとしたからです。幕府の御用学者、諸藩の学者も幕府を怖れその説を支持しました。
ところが、関ヶ原で西軍についたにもかかわらず、江戸時代に快男子の典型とされた武将が三人います。『関ヶ原 上』P392を引用します。
大谷刑部少輔吉継、島左近勝猛、直江山城守兼続、この三人は、いわば快男子の典型として江戸時代の武士たちに愛され、その逸話がさまざまの随筆に書かれ続けた。三成が「悪神」で触れられぬために、それにかわって三成の三人の副主人公が取り上げられ、ついにはむしろ過褒なくらいにもてはやされた。
今回は、この快男児三人「直江兼続」「大谷吉継」「島左近」の活躍を紹介します。
直江兼続
石田三成の盟友であり、大老上杉景勝に仕える名将。異常に(司馬遼太郎がそう言っています)正義を好み信に厚い男。大義ない家康を許せず、石田三成が直江兼続に「兵を挙げたい」と相談すると
「それでこそ、男だ。およばずながらこの兼続、中納言様(景勝)をお助け申し、上杉家百二十万石を挙げてその義挙を応援つかまつる。必ず大事出来のときはこの直江江山城守をお忘れ遊ばすなよ」
このように、兼続は三成とともに挙兵することを約束します。
一向に上洛しない上杉家に対し、徳川家康が使者を送ります。その手紙の内容は「景勝に謀反の噂あり。証拠もそろっている。すぐに会津から出て来て申し開きをせよ」という激烈なものでした。直江兼続は徳川家康に負けず劣らず力のこもった返事を書き、それを使者に持たせ「とっとと帰って家康に見せろ」と言い放ちます。
ところどころ略しながら引用します。
わが上杉家について、さまざまの雑説が上方において流布され、内府(徳川家康)もご不審とのこと、なんとも仕方のないことである。
景勝に異心なき旨、誓紙に書いて差し出せとのことであるが、誓紙などは何通書いても意味はない。要は心である。景勝は律儀の人物であるということは故太閤殿下がもっともよくご存じでおられた。その心、太閤の死後といえども変わらない。
太閤御死後、諸侯の人心大いに変わったが、景勝をそういう種類の人間と思っていただいては当方迷惑である。
前田年長に謀反の風聞があり、それを内府(徳川家康)は詰問されたが、内府の思し召しのまま。けっこうな御威光でござりまする。
噂によれば、家康殿が秀忠殿かが会津討伐に下向なさるらしい。来るならば来よ。我は国境に陣を布いて待つであろう。
会津で兵を起こし、関ヶ原には参加しませんでした。関ヶ原のあと、家康に許されます。
大谷吉継
直江兼続同様、石田三成の盟友。石田三成と同じ近江の出。優秀で、秀吉に取り立てられました。しかし、重い病(らい病ともいわれています)にかかってしまいます。
石田三成と大谷吉継の友情がよくわかる逸話があります。とても有名な話です。引用します。
秀吉の在世当時、茶会があった。茶碗が回されていく。吉継がそれを喫しようとしたとき、鼻水が垂れ、茶の中に落ちた。
吉継は病人である。すでに皮膚に異変を生じ、顔面が崩れはじめていた。居並ぶ諸侯たちはそれを知っているため感染を怖れ、吉継から回された茶碗を、飲むまねだけをして次に渡し、次々に空飲みをして送っていった。やがて茶碗は三成の膝もとにきた。三成はそれを高々と持ち上げ、ことごとく飲み干してしまった。
それを当の吉継は見ていた。
「佐吉(三成のこと)のためなら命も要らぬ」
とあとで吉継は人に語った。
有名な話ですが、三成と吉継の友情関係はこの程度の小事件によって結ばれたものではなく、このような事例を双方で何度も行ったことで生まれたとあります。
関ヶ原当日、小早川軍の裏切りを予想し、吉継はあえて小早川軍の前に陣取ります。もしも小早川軍15000の兵が裏切ったら大谷軍が全滅してでも阻止する、そのつもりで。西軍勝利のため、三成のため、豊臣家のため命をかけて戦う、そう誓い出陣します。
その小早川軍が、最後の最後に裏切ります。大谷軍に襲い掛かる小早川軍。ここからは、少し長くなりますが、また引用します。
吉継はうなづき、事は終わった-と思った。この一瞬から豊臣の世が亡び、徳川の世が来るであろう。同時に自分の命もここで終わらねばならぬと覚悟した。
吉継の次の行動がはじまった。即座に下知をして兵をまとめ、全面の敵の藤堂・京極勢をすてて、たった今あらわれた小早川の大軍を防ごうとした。名将という言葉を、この戦場の敵味方の諸将の中で求めるとすれば、大谷吉継こそそうであろう。彼はその最悪の場合を想定していた。
彼は草むらに四百挺を並べて、攻撃してくる小早川勢に急射撃を浴びせた。
「死ねやぁっ、死ねやぁっ」
と下知し、さらに声をふりしぼって、
「やれ、金吾(小早川)なる者は、千載の醜名を残したぞ。裏切り者を崩せ。突けや。雑兵には目もくるるべからず。一途に金吾が旗をめがけよ。金吾を討て、金吾を地獄に落とすのに牛頭馬頭邏卒(ごずめずらそつ)の手をば借りるべからず。汝らが地獄の邏卒の先駆けをせよ」
と喚きつつ敵陣へ乗り入れてゆく吉継の声、姿は、鬼神が乗り移ったかのごとくであった。大谷勢は、死兵と化した。
大谷軍の十文字の槍は血の乾く間がなかった、と書いてあります。最後は部下に自分の首を埋めさせたとのことです。東軍は吉継の首を懸命に探しましたが、見つけることはできませんでした。
島左近
軍事面で強烈に三成をサポートした三成の右腕というべき武将。三成よりずいぶん年上ですが、三成が三顧の礼をつくして自軍に招き入れたといいます。三成は自分の領土の半分近くを左近に渡した、というほどです。
その勇猛さ・狂気じみた左近の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となりました。特に左近を討ち取った黒田長政軍の兵士たちは、関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたとの俗説がでたほどです。そのときの描写がこれ。
ついに接戦になった。島左近は乱軍の中央に馬をすすめ、
「かかれえーっ!。かかれえーっ!」
と、低く鋭く透る塩辛声をもって味方を叱咤した。この左近の声は、戦後、黒田家の家士が夜話をするたびに話題に出、
「いまだにあの声が耳をついて離れない」
と語りながらもしょう然とする者が多かった。
島隊の突撃はすさまじく、ほとんど倍以上の人数の黒田隊の前隊を苦も無く蹴散らした。黒田長政も必死に自隊を鼓舞したが一度崩れ立った足を踏みとどまらせようがなく、ついに潮の引くように撤退した。
かわって田中吉政隊三千が島隊の前面にあらわれ、島隊に息をつくゆとりもあたえずに攻め立てたが、左近は鉄砲と騎馬の突撃をたくみに繰り返しつつ敵に打撃を与え、やがて自ら槍をかざして騎馬隊の突撃を敢行した。
この突撃が尋常のものでなく、士卒の顔はことごとく発狂寸前の相を帯び、死を恐れる者が一人もいない。
とにかく、島隊の兵は一人残らず気が狂っていた、死を怖れない「死に狂い」の兵だったといいます。左近は最後銃で撃たれて戦死します。その最後を目撃した者はいないと言われています。吉継同様、その死体は見つからなかったとのことです。
この関ヶ原の戦いのキーマンは小早川秀秋です。小早川がそのまま西軍についていれば勝てたとも言われています。原作ではひどい書かれようです。その小早川役を東出くんがやるとのことです。あの役を清純派?王道?の東出くんとは驚きです。
映画『関ヶ原』見に行きます。楽しみです。