見終わって一日経過しました。今なら落ち着いて感想を書けそうです。
改ざんしたところが物語の核となっている
あの映画、制作者側はどこにおもしろさを感じてほしかったのでしょう。「小早川の苦悩」や、「三成と初芽の切ない関係」ですか?
小早川、おかしいでしょ!
小早川、原作ではあんなんじゃないんですよ。小早川は「人の道に背く」とことんどうしようもないやつとして、原作では描かれています。
こんな感じです。
原作の痺れる場面の一つは、大谷刑部や左近の義に報いる心や「死に狂い」とも言われた熾烈な戦いぶり、そしてその最後だと思うのです。 ところが、小早川を少しかっこよく描いているので大谷や左近の死に様がぼやけてます。大谷は小早川軍の数メートル手前で腹切ってますし、左近に至っては追い詰められて爆死してます。もうなにをかいわんやです。
原作ではこんな感じです。
三成、初芽に手を出してますから!
次は、初芽についてです。三成は「妻がいるから、おまえ(初芽)には手をつけない」みたいなこと言ってました。あれ全く違います。三成は何度も初芽と関係を持っており、原作ではその様子が激しく描かれています。初芽は裏切り癖で悪名髙い高虎の血筋の人間なので「裏切るのでは?」と左近に警戒されます。初芽にのめり込む三成に「あの娘はよせ」と厳しく忠告するくらいです。三成は、左近の忠告など全く意に介さず初芽と関係を続けます。当時はそれが悪いことではないのですけどね。
原作と映画の関係
原作のある一部分を核とする、その核を演出するために他を変える、これはありだと思います。ところが、あの映画では、原作とは真逆の「小早川の苦悩」「三成と初芽の淡い関係」この二つが核となっていたように思います。
原作を変えるな、と言ってるわけではありません。映画の核は原作の一部分にしろと言っているわけです。
司馬の『関ヶ原』を原作としたのなら、制作者側は司馬の『関ヶ原』が好きなはずです。わたしはその制作者側の表現を見たかったのです。原作のどこを取り上げたのか、と。それが…。制作者側の意図がまったくわかりませんでした。原作のどこを気に入って、この映画でそれをどう見せたかったのか、わたしにはさっぱりわかりませんでした。
本には人それぞれの読みがあり、「こう読まなきゃいけない」というものはありません。人から本の感想を聞く楽しみは、「わたしもそこがすき!」という共感や、「そこがおもしろかったの?」という発見です。わたしは大谷刑部や左近の考えや戦闘シーンが好きでした。制作者側に聞きたい、あなたはどこが好きだったんだ、と。
おまけ
そもそも、詰め込みすぎなんですよ。パパパっと場面が変わります。教科書を早口で読み聞かせしてもらってる、そんな感じでした。描き切れずに場面の落ちをナレーションですます、なんてところもたくさんありました。
豊臣の家臣連中が集まって飲み食いし、喧嘩騒ぎになっているところを家康が大喝する場面、三成が清正らに追われ家康屋敷に隠れる場面、あんなところどうでもいいのです。
歴史に興味がない人には、何のことやらわからなかったと思います。セリフも早口で聞き取れません。特に島津の鹿児島弁は、共通語とはまったく違うので仕方がないですが、そこはもう少し共通語に寄せてよかったのではないかと思います。歴史をまったく知らず、この映画につき合わされた家人は、途中で寝てました。感想を聞くと、「登場人物が多すぎて、誰が誰だかわからない」「岡田君(三成です)はなぜあんなに嫌われているの?」「松山ケンイチ君(兼続です)ってどういう人なの?」「東出君(小早川です)、かわいそうだね」こういうことになる!