松山千春さんの神対応
8月22日の朝日新聞です。松山千春さんの神対応を取り上げています。
出発が遅れた飛行機で、乗り合わせていた歌手の松山千春さんが歌を披露したといいます。「いらだつでしょうが、みんな苦労していますから待ちましょう」と語りかけながら。
この記事を読み、以前読んだ本、戸田山和久さんの『「科学的思考」のレッスン』を思い出しました。
「市民」と「大衆」
戸田山さんは、「市民」を「対話を通じて社会を担っていく主体」、「大衆」を「専門家に任せて、何かあったら文句を言う人」だとします。そして内田樹さんの文章を引用しながら、「市民」と「大衆」の違いを具体的に説明しています。
まず、内田さんの文章です。『一人では生きられないのも芸のうち』。
南海電鉄の線路にヘリコプターが墜落して、数時間電車が止まったことがありました。そのとき「どうなっているんだ。会社はどう責任を取るんだ」と気色ばんで駅員に詰め寄る乗客たちの姿が報道されていました。
線路の上にヘリコプターが落ちてきたのは南海電鉄の責任ではありません。こういうときはせめて、「できる範囲で復旧の手伝いをする」というのが常識ある社会人の態度だと思います。駅員に詰め寄ってみても復旧作業がその分だけ進むはずがないんですから。
社保庁の年金不祥事のときにも同じような印象を持ちました。メディアでは知識人たちが不機嫌な顔で「これでは若い人たちはもう年金を払う気がしないでしょう」とコメントしていました。これを聴いて「じゃあ、年金払うのやめよう」と思った人がたぶん日本に何十万かいたと思います。年金を払う人が減ることで、年金制度は少しでも改善されるのか、さらに破綻に近づくのか。結果は想像するまでもありません。メディアは「年金不信」を煽り立てるだけでした。
この電鉄や社保庁の例を出し、戸田山さんは、「市民」と「大衆」の違いを
事故で駅員に詰め寄って文句を言うのは「市民」ではありません。「大衆」です。復旧の手助けをするか、せめて復旧作業の邪魔をしないように努めるのが「市民」。年金不祥事が起きたときに、年金を納めるのが嫌になったと言うのが「大衆」で、どうしたら年金制度を再建できるのかを論じるのが「市民」です。
と説明します。また、
「大衆」と「市民」のどこが違うかというと、「大衆」は、お上や専門家がいいようにやってあげるから黙ってついてきなさい、という態度でいます。一方、「市民」は自分がシステムの一部、公的なものの一部だから、自分たちが何かをやらないとシステムがきちんと機能しないということを知っているわけです。
そして、「市民」である必要性を説いています。
責任追及と同時にこのシステムをきちんと機能させるためにはどうしたらいいのか、を自分の頭で考えるためにはある程度の知識が必要です。「餅は餅屋」ではすまされない時代になっています。勉強といっても、知識の習得というより、わからないことに耳を傾けて新しいものをつくっていこうとしたり、みんなの合意を得ようとする姿勢を学ぶ必要がある、とでもいうのでしょうか。
ところで、松山千春さんの対応は見事ですね。先の鉄道事故の例に重ね合わせると、松山千春さんは、立派な「市民」と言えるでしょう。わたしのような一般人も、こういう困った状況に直面したとき、自分の能力や立場で何ができるだろうか、と考えて行動したいです。
読書についての記事です。
過去に読んだ内田樹さんの本についての記事です。