この冬休みにも何冊か本を読みました。
この読書生活の中で、もっともガツンときた本が宮部みゆきの『火車』。基本、ミステリーは苦手で謎解きにもさほど興味はありません。だから「伏線の回収がお見事」とか「トリックが秀逸」とか「終盤で何度も物語がひっくり返る」と言われてもあまり惹かれません。
どちらかというと、どろどろした人間模様とか、キリキリとした社会の不条理などを臼の中でウリャウリャとこねたような話がお気に入りです。例えば吉田修一の『悪人』とかヤンソギンの『血と骨』とかかな。東野圭吾の『さまよう刃』とか。その追い込まれた状況の中で人間はどう考えるのか、という部分が描かれていたりするとゾクゾクします。
『火車』は社会派ミステリーと言われている部類とネットで読み、少し期待して手に取りました。
これ、おもしろい。
一人の行方不明者を追っていくと、多重債務の末に自己破産した若い女性にたどり着く。しかし、最後までその女性は登場しません。主人公の刑事が周辺の人間からの聞き取りを緻密に積み重ねていく、という形でストーリーを紡いでいきます。
自己破産もできず、嫌がらせを受け続ける生活に人はいったいどれだけ耐えられるのか。「ただ幸せになりたかっただけ」それだけなのに、両親も夫も財力も法も守ってくれない。守ることができないのなら捨てるしかない。すべての痕跡を消して。名前とは他人に呼ばれ認められることによって存在するものなのに、愛する人からも一生自分の名前を呼ばれないのは悲しい。
彼女たちの周囲に聞き込みをする中で出てくるコメントが秀逸。
このまま死んじゃってもいいかなあ、って思うこと、ある。
踊り場のない長い一直線の階段で、ある女性が転落死する。調べはするのですが、事故(足を滑らせた)なのか事件(誰かに押された)なのかわからない。すると、近しい人が「事故でも事件でもなく、自殺じゃないか?」と証言する。
自殺といってもいろいろあるんじゃないかと思うんですよ。覚悟を固めて農薬を飲むとかビルから飛び降りるとか、そういうのだけが自殺じゃなくてね、なんかこう、このまま死んじゃってもいいなあ、というような。
淑子(死んだ人)さんねえ、毎度毎度「たがわ」(居酒屋)に来るたびに、酔っぱらって、危ないからやめろと言われても、この階段を下りてたんですよ。それはね、そうやって何度か降りていれば、そのうち、どうかして足が滑って、なにかのはずみでバランスを崩してね、うまく下まで転がり落ちて、パッと死ねるんじゃないか、そうなったらいいなあ…そんなふうに考えてたからじゃないかと思うんですわ。『火車』P322
よくわかる!自殺まではいかなくても、「このまま死んじゃってもいいかな」くらいならしょっちゅうありますよ。そういうもんじゃないの?人の生死の境なんて、ほんと低いと思うんですよ。こうやって死んだ人、多いと思うな。というより、こういう思いをしたことがない人っているの?
十分幸せ(そう)なのに、さらに何かを渇望することってある
幸せになりたい、そのためにはお金がいる。お金のために必死になる。はたから見ていると今のままでも十分幸せそうに見えるのに。
あのね、蛇が脱皮するの、どうしてだか知ってます?脱皮っていうのは皮を脱いでいくでしょ?あれ、命がけなんですってね。すごいエネルギーが要るんでしょう。それでも、そんなことやってる。どうしてだかわかります?
(成長するためじゃないですか)いいえ、一生懸命、何度も何度も脱皮しているうちに、いつかは足が生えてくるって信じてるからなんですってさ。今度こそ、今度こそってね。
べつにいいじゃないのね、足なんか生えてこなくても、蛇なんだからさ。立派に蛇なんだから。
だけど、蛇は思ってるの。足があるほうがいい。足があるほうが幸せだって。『火車』P415
蛇なんだから足は生えない。それに足なんかなくたって立派な蛇。でも、足がほしい、と願う。よくわかる。
昭和末から平成にかけての話なので、時代が色濃く出ています。スマホどころか携帯もなく、ポケベルで人を呼び出し、ネットもないので調べ物は辞書。中年には懐かしくもあった本でした。