読書生活 

本もときどき読みます

加齢による視覚の衰え。さようなら、炊きたての米とギャルの肌つや。

 ブログやツイッターを始めたせいか、近眼がさらにひどくなりました。先日人間ドックの際に行った視力検査では、モニターに映るあのアルファベットのCみたいなやつ(ランドルト環というらしい)自体が見えませんでした。小さいレバーを右手の人差し指と親指で摘まみ、さあ来い!と息巻いて表示を待っていましたが、いつまでたってもモニターにCが浮かび上がって来ないのです。出たらすぐ撃つつもりで油断せず構えているのですが、出ない。

 すると、数m先にいる係の方が、

「見えませんか?もう出てますよ。見えていなかったら、レバーの下にある白いボタンを押して下さい」

と言うんです。え?もう出てるの?呆然としました。右か左か(上か下か)で悩むことはあっても、Cが見えなかったことなんて初めてでしたから。

 検査終了後、係の方に、

「yamaさんは、来年から裸眼の検査は必要なさそうですね」

と言われました。うるさい。

 

 近眼のメリットは、「遠くのモノは見えないけれど、極めて近くのモノならはっきり見える」というところですが、老眼のせいで最近はそれも怪しくなってきました。近くによりさえすれば見えるだろ、というのは間違っています。30㎝くらい離すとピントが合いますが、対象が文庫本の字ほどに小さくなると、ピントは合っても「小さくてよくわからん」という状態になります。

 近くのモノも遠くのモノもぼやけてしまい、悲しい気持ちでいっぱいです。近くがよく見えていないので、家人が作る野菜の肉巻き(といって通じますか?いんげんやレンコンを豚ロースの薄切り肉で巻いてあります)の中の野菜が何かは、箸でつかむ時点ではわかっていません。肉巻きの両端から少しだけはみ出る野菜の尻尾からでは、判別できないのです。木片が巻かれていても、愛猫福ちゃんの💩が巻かれていても、口に入れるまでわかりません。

 茶碗に盛られているお米も、実はよく見えていません。40年以上茶碗のお米を箸でつかんできた経験から培った感覚を頼りに、米の塊を箸でつかみ口に入れています。「一粒一粒の米が立ってるぅ~」「ふっくらしてるぅ~」という状態は、老眼鏡をかけなければもう見ることができません。

 

 夏になると、海沿いのコンビニは大勢の水着のギャルで賑わいますが、わたしにはもう彼女たちの肌が水を弾いてる様子を見ることはできません。肌の上を流れる一筋のしずく…。ああ、あの神々しいほど美しいラインをもう見ることはない、そう思うととても悲しい。