わたしの実家から100mほどのところにきれいな砂浜がある。最寄りの電車の駅からバスで30分という辺境の地にもかかわらず、今から30年以上前、夏にはこの砂浜目指して何万人という観光客がおしよせた。
この田舎町は夏にいやらしい程わき立つ。海近くの松林は一日1500円という破格の駐車場となり、海の家では原価100円弱の焼きそばを600円で売っていた。
田舎の学校は穏やかでいい子が多い、と思っている人がかなりいるがそんなことはない。人数が少ないだけで割合は都会と同じ。学校生活を謳歌していない子どもは田舎にもいた。わたしもその一人だった。
アメトークで、「中学のときイケてないグループに属していた芸人」ってのがあったが、わたしは「イケてないグループに属していた」のではなく、ただの「イケてない」だった。人数がとにかく少なかったので、イケてるグループもイケてないグループもなかった。イケてる人間とイケてない人間がいて、わたしはその「イケてない」だった。
当時の小学生には、夏休みに朝のラジオ体操という習慣があった。集合場所にラジオ体操カードを毎朝もって行き、体操が終わると6年生にハンコを押してもらい帰る。6年生になったわたしは、家からハンコを持って行ったけど、わたしのところにカードを持ってくる下級生は一人もいなかった。別の子のところに列ができるわけ。誰も来ない、わたしのところに。「僕もはんこ持ってきてるんだけど」なんて恥ずかしくてとても言い出せず、わたしのはんこは毎日きれいなままだった。親に心配かけないように、使われなかったハンコを家の朱肉にこっそりつけてさっと拭いて元の場所に戻したりしてた。今様に言えばネクラで、でもそう思われるのが嫌なので努めて明るく振る舞っていた。
そんなわたしは夏の賑わいが大好きだった。自分の寂しさが少し紛れるような、そんな感覚だったのかもしれない。大勢の観光客に紛れてよく一人で泳いだ。わたしの数少ない特技の一つに「直径30センチ以上の泥団子(正確には砂浜団子)を作ることができる」というものがあるが、それはこの頃、海で習得した悲しい技だ。
そんな観光客もお盆が過ぎるころには少なくなり、20日過ぎると海の家は撤収し、8月の最終週には駐車場が松林に戻った。「レナードの朝」という映画があるが、わたしはあの映画を見る度にこの夏の終わりを思い出す。
2学期の始業式、日常に戻った県道を歩き学校に行く。半日で終わるでしょ。学校で時間が過ぎるのをじっと待ち、走って家に帰る。そして一人で海に行く。
わたしだけの海、誰もいない。泳いで沖まで出て波に漂い空を見る。沖から見る空は広く、雲も大きく高く見えた。そして、泣く。波に漂い泣く。すさんでんなあ。
自殺が一番多い日は9月1日だとのこと。このところ、新聞は毎日のように「学校は絶対に行かなきゃいけないところじゃない」「死んだらだめ」というメッセージ性の強い記事が出ています。
学校が辛くて自殺かあ。甘ったれるな、と喝を入れるつもりはないし、そんな資格もありません。わたしの一人海水浴も、緩慢な自殺と言えないこともないですし。「いつか笑える日がくるさ」なんていう言葉は恥ずかしくて言えない。
わたしはおかげさまで、波はありましたがなんとか生きてますし、今はそこそこ幸せです。明日はわかりませんけど。