人より100倍木が多い、ど田舎の中学校には、くそみたいな教師が山ほどいた。
そいつらは、なんでもかんでもチームで競争させたがった。合唱コンクール、運動会、リレー大会、駅伝大会…。駅伝大会ってなんだ。マラソン大会でいいのに、クラス内でチームを作り、タスキを作らされ、走らされた。クラス対抗漢字テスト大会なるものができたときはさすがに驚いた。努力が点数に直結すると短略的に考えた教師の発案なのだろうが、どうして会議で止まらなかったのか。努力=点数の図式はもう当てはまらないのは常識なのだが、まだやってるのだろうか。
教師だけではない。こういう集団競争では、教師の意図を的確に理解したリーダーが、一致団結の旗印を掲げ、落ちこぼれを切り捨てたり罰を与えたり、褒美をくれたりと、まさに教師のシモベとなり学級に君臨する。それを教師は、子供の自主性が育ってきた、としたり顔で見ているわけだ。
先の震災当時、「絆」という言葉がやたらもてはやされたが、わたしは嫌いだ。絆は上から押し付けられるものではない。あの同調圧力が嫌なのだ。
特に嫌なのが、長縄大会。うちの学校では、クラスの生徒が一丸となって8の字を描いて次々と飛んでいく「8の字跳び」を1分間でどれだけできるのかを競った。24時間テレビなんかで時々やってるから、見たことのある人も多いだろう。どうやら全国的に、いまだに行われているらしい。ギネスにも登録されている。調べてみたら、世界記録は静岡の小学生の1分間220回だ。
動画を上げたくないから上げないが、調べたらすぐ出てくるから見てほしい。この動画を見ると、わたしは胸が痛くなる。君たちは本当にこんなことがしたいのか、どれほど授業や休み時間を潰して練習したら、こんな日光サル軍団みたいな技術をホモサピエンスが身に付けられるのだ。
長縄だけでなく、大縄跳びも、日本では人気のようだ。東京五輪が決まった近年は特にヒートアップしており、NHKでは全国の小学校から応募してきたクラスのなかから日本一を競う「全日本なわとびかっとび選手権」が「東京2020公認プログラム」となっている。『炎の体育会TV』(TBS)でも同じよう趣旨で「松岡修造プレゼンツ小学生大縄跳び選手権」が企画されていたらしい。
こういう全国の小学生に一律で「何か」をさせることを一度スパッとやめてみてはいかがだろうか。
大縄跳びも長縄大会も、合唱コンクールも漢字大会も(これはうちの学校だけか)。別にそれらの大会やら種目やらを禁止しろなどと言っているのではない。どうしてもやりたいなら、希望する参加者を募れ、と言いたいのだ。
跳びたくない子ども、跳ぶのが苦手な子どもも無理矢理に巻き込んで「クラス全員強制参加で高記録を目指す」みたいなノリへもっていく指導方法をあらためるべきだと申し上げているのだ。
みんな一緒くたにして、記録会へ向けて昼休みなどの自由時間にも、クラスの子どもたちが自主的に練習をする。これはクラス全員で「話し合い」をして納得のうえで行っているからだというが、それはあくまで表向きの話だ。そんなわけないだろう。
当然、縄跳びが得意ではない子どもや、やる気のない子どももいるが、「先生や大縄跳びが得意なグループが燃えているので、とても言い出せる雰囲気ではない」というのだ。
「同調圧力」を、「全員参加の○○大会」によって身をもって叩き込まれているというわけだ。
「みんな同じ」という画一的な質を追い求める集団内で、「みんなと同じことができない人間」はイラッとされ、最悪排除されてしまうのは容易に想像できる。
一方、「みんな同じことができない人間」に強烈な罪悪感が植え付けられることも言うまでもない。自分が同じことをできないことが、「みんな」に多大なる迷惑をかけて、舌打ちや陰口の対象となる。「みんなと違う」のはそれだけで「罪」なのだ。
跳べない子どもは、早くこの苦しみから解放されたいと願う。だから居残り練習でもなんでもする。跳べる子たちから特訓を受ける。それは縄跳びが楽しいからではなく、「みんなと違う」ではなくなった安心感と、「みんな同じ」になって幸福感を得るためだ。
そうやって子どもは成長をしていくんだ、という声が聞こえてきそうだが、そのような「人は辛い経験を乗り越えないと一人前になれない」という「ハラスメント」と「愛」を混同する思想が、5歳女児に「しつけ」名目で虐待する親や、「あいつに一皮むけて欲しい」と反則プレーを命じるアメフト監督を生み出していることを忘れてはならない。
こういうハラスメントを乗り越えて、「よくやった!」「頑張ったね!」と親や教師に褒められた子どもたちが成長して作り出す社会はどんな社会になるのだろう。同調圧力、全体主義、これらがはびこる日本の根っこの一つが、このクラス対抗○○大会だと思うのはわたしだけだろうか。