おもしろい小説のことを何と言おうかな、と考えてた
「読書の効用」とネットで調べると、語彙力のアップや知識を増やすことなどがあげられています。勉強のためだったり、暇つぶしだったり、本のページを開くことが純粋に好きだったり、本を読む理由は人それぞれ。
わたしも読書をする理由なんて正直あまり考えたことはないのですが、強いて言うなら、本の世界に没入する感じを味わうためかな。没入感?この感じ、うまく言えなくてもどかしいのですが、小説を読むのが好きな人にはわかってもらえると思います。
小説の世界に没入させてくれる本を「没入本」と呼んできましたが、もっとうまい表現はないものか、と、そんな疑問が頭の片隅にありました。
ところが、先日、本屋で立ち読みをしながら「これだ!」と思った文章がありました。わたしが先ほどから書いていた「没入感」的感覚、これを見事に表現している文章です。
引用します。内田樹の『街場の読書論』です。
地球最後のときを迎えた自分を想像してみてほしい。人類は死に絶え、食物も少ない。あとは餓死を待つだけという状況にいる。そのとき鞄の奥底を探ると、「細雪」の文庫本に指先が触れる。取り出して頁を開くと、不意に昭和10年代の阪神に拉致される。読み進むうちにやわらかい船場言葉の韻律、庭から吹き込む初夏の風、畳と木でできた家の匂い、滑るような着物の手触り、漆器の触感、美食の味わい…そういうものが私たちの感覚を領してしまう。その一瞬「世界の終わり」という索漠たる現実を私たちは忘れてしまう。
わたしは谷崎潤一郎の細雪でこのような感覚に陥ったことはないのですが、内田さんが細雪で味わった、「拉致される」感覚や「感覚を領する」感覚、「索漠たる現実を忘れてしまう」感覚はよくわかります。
「わたしもそう思ってた」と感じるような文章に出会うと嬉しくなりませんか?その思いや感覚がより概念的で抽象的なことがらであればあるほど、それがピタッと文字にしてある文章を見ると興奮します。
で、この内田さんの文章から「没入本」に変わる言葉を考えてみます。拉致は言葉が悪い。現実逃避…別に逃げてるわけじゃない。そこで「感覚を領する(される)」を縮めて「感領本」。とりあえず、これに決めました。「とりあえず」としたのは、もっといい言葉を探すためです。
「地球最後の日に読みたい本」でもいいんだけど、地球最後の日に本読まないでしょ。
最近、拉致されてないなあ。そのつもりで読むのだけれど入り込めない。拒んでいるわけじゃない。それどころかこちらから「拉致されよう」と思っているのに、うまく入り込めない自分がいる。覚悟を決めて彼の家に行ったのに、指一つ触れられずに朝が来た、そんな感じのパターンが多い。たとえベタ!(笑)。
ちなみに最近の「感領本」は、『祈りの幕が下りる時』かな?みなさんの感領本はなんですか?